プセルロ スとイタロ - Osaka City...
Transcript of プセルロ スとイタロ - Osaka City...
プセル0
スとイタロス
とプセルロスは自慢している。彼はまた、
ま
じ
め
に
ー十一世紀ピザソツの精神
・思想風土の変化ー
プセルロ
スとイタロ
(1)
ミカエル
・プセルロス
MichaelPsellos (I
0一八ー一〇七八?)。
ミカエル・プセルロスは、十一世紀のピザンツを代表する哲学者である。彼は、修辞学(雄弁術)
・弁証法諭理学
.算術・幾何学・音楽・
天文学を修め、これらの学問の総合として
、
哲学を学んだ。その他、彼の学峨は占凪術•練
金術から法学にも及んでいる。彼は私立学校の教師として、次いで因立の「哲学大学」の学長として教百にあたり、
その広い学識を人々に披露した。その講義は人気を呼び、哲学者プセルロスの名は遠く国外にまで唇いたという。
我々はケルト人やアラプ人さえも虜にした0
;・・・・ナイ
ル川がエジプトの人々を瀾すように、私の講義は彼らの魂
(
2
)
を栖す。
nンスクンティノス九世(在位
一0四二—五五)から‘‘、カエル七世(在位
-0七一ー七八)に至る歴代の皇帝に仕え、帝国の政治にも大きな役割を果した。
ス
井
上
浩
八九
(819)
ブ七ル0スとイク0ス
現代の研究者もブセルロスには大さな関心を寄せている。彼の『年代記』は十一世紀ピザンツ史研究の一等史料で
あるし、彼が同時代の著名人にあてて書いた多くの手紙は、次々と公刊されて、この時代の歴史・文化の研究に貴重
「復興」に大き
とりわけブラトンやアリストテレスの哲学の
ヒュー▼_;上(3
)
な功績があったことから、「もっとも伝大なピザンツ哲学者、最初の位大な人文主義者」という評低が、
れるのが常である。
ヨハネス
・イタロスは南イクリアの出身(イタロスの名の由来)である0
若くしてコンスクンティノープルに来
て、‘‘、カエル
・ブセルロスのもとで学ぷ。プセルロス同様、幅広い学識を誇り、とくに新プラトン派哲学、アリスト
テレス哲学、弁証法に秀れていた
0
I
0七0年代に師プセルロスのあとを継いで「哲学大学」の学長となる。彼もま
この人物はすぺての哲学の教育を監名し、彼の講義には多数の若石が群がっ
55
と伝えられている。ところが一〇八二年に彼の教説は異端の疑いがあるとして告発され、帝囚政府、
による審間を受け、結局、破門に処せられた。彼が破門された最大の理由は、古代ギリシア人の不敬なるドグマを教
会の正統なる教えの中にもち込んだ、という点にあった。イタロスもまた、ブセルロスと同じく、古典古代の学問を
深く学んだ人文主混者であったが、その運命は対照的であった。
イタロスの著作は今日まだ未刊行のものが少なくなく、彼の学問
・思想の全容を知ることはできない。イクロスに
関する本格的な研究はまだないといってよい。この点でもプセルロスとは対照的である。
同じく古代の学問にたずさわった二人の哲学者の運命の違いはいったい何に起因し、何を示しているのだろうか。
本稿はプセルロスとイタロスという二人の哲学者をとり上げて論じるが、その狙いは、彼らの学問
・思想
・教育自体
の比較
・検討よりも、むしろ彼らが生き、
彼らの学問が展開された社会、時代背景の比較にある。二人の哲学者の
運命の比較を通じて、十
一世紀ビザンツ社会、とくにその精神風土の変化を明らかにしたいというのが、本稿の狙い
(6)
である°筆名は数年来、政治史、経済史、階級闘争史などさまざまな視角から、転換期十一世紀に光をあててきた。
本積もまたそれら一連の研究と共通の問題関心に立つものである。なお考察の煩序としては、まずプセルロスの学問
・思想そして彼の教百上の活躍について検討し、続いてイタロスの異端審問、彼の破門について考察する。そして最
十一世紀ビザンツ社会の変容について、
後に、それらをふまえた上で、
う。
A注>
(1)
M. Psellos, Ch
rono.さraPhia,2 vols., ed., E. Re-
nauld, P
aris, 1926-28.の編者字北人4化照。他にJ.M.
Hussey, C
hurch and Learning in th
Byzaミine
Empim867.NN85. Oxford, 19
37, pp.
43,44•
73-88.
R. B
rowning, "
Enlightenment and Repression in
Byzantium in the Eleventh and TweUtb Centuries:‘。
Pミ&Present: 69, 1975, pp. 3,23. J. Go
uillard, "La
religion des philosophcs", Trauaux et Memoires, 6,
1976, pp. 3151324. P. Lemcr!e'Le gouvernement des
phllosophes : !'en咎ignemcnt,les e8les, la
culture",
P. Le
merle, Cinq,tudes sur le XI•si
ecle
byzantin,
た魅力的な講義で人々を引きつける。
(ヽ)
ヨハネス・イタロスIoagesItalos (生没年不詳)。
な手がかりを与えている。
ブセルロスが古代の学問、
プセルロスとイタ0ス
九
pp. 19
3 248.もみよ。
(2)K•N
. Sathas、
MC69CミふAPie己苓7(MB),7 vols.,
Venice, 1872,1894, vol. V, p. 508.
(3)G. Ostrog。rsky,G1schicht1 dis byzantinishen
Staat,s. 3. Aufl., Mo.ncheo, 1963, S. 271.
(
4
)
イク0スについては、J.M•Hussey
,
op. cit., pp.
89ー
102.R. Browning, op. cit., pp. 11
,15, J. Gouillard,
0p, cit., pp, 300ー
315,などをみよ。
(5)Amna Comnena, Alex
idd,, B. Leib, 4 vols., Paris,
1937,76. vol. l[, p. 37.
(
6
)
それらをまとめたものとして、井上浩一
国』、岩液書店、一九八二年、第=―章
rピザンツ帝
思想史の面から再考することにしたいと思
ついで宗教会証
彼に与えら
九〇
(821) (820)
が、
九一
一ケタ
10一八年コソスタンティノープルの商人の子として生まれた```カエル
・プセ
ルロスは、五オで修道院の付属学校
(
1
)
(
2)
に入り、初等教育を受けた。その後「より上級の課程」に進んで、正字法、詩(*メロス)を勉強する。一時、生活
のために帝国役人となって地方へ出かけたことがあったが、まもなく都に戻り、学業を続けている。当時の
コンスタ
(3)
ンティノープルでは初等
・中等の教育機関は存在したが、高等の教育機関は存在しなかった。そこでプセルロスは非
常な苦労をして、高度な学問を修めた。修辞学を学んだプセルロスは、続いていわゆる四科、算術
・
幾何•
音楽・
天
文学を修め、
それらの知識をふまえて、学問の総合としての哲学を学んでいる。さらに論理学
・法学をも学び、占星
術(カルデア人の知恵)など当時の教会が危険視していた学問にまで彼の関心は及んだ。彼は自分の学問
・知謙の広
さ、深さを自慢にしていたが、それ以上に彼にとって自慢であったことは、当時のビザンツにおいて古代の学問の伝
(
9
)
統が絶えていたなかで、独学で「埋れていた水源を掘り出した」ことであった。古代の偉大な学者たちの知恵がすで
に知られなくなっていたのを、苦労して発掘し、人々に伝えたことが彼の第一の跨りだったのである。時には倣慢と
さえ思われる態度をみせるブセルロスも、プラトソをはじめとする古代の学者の前では非常に謙虚であり、自分を独
創的な哲学者
・思想家とは考えず、
精神」の一端を見ることができよう。
古代の学問の復興者と考えていたように思われる。我々はここに、「ルネサンス
プセルロスは十一世紀前半における学問の衰退ぶりについて、その『年代記』の中でも繰り返し強調している。
私が哲学を学び始めた当時、哲学は学ぶ者もなく、まさに息を引きとろうとしていた。立派な教師を見つけるこ
とはできず、あらゆるところを探したけれども、ギリシア人の間でも、バルバロイの間でも哲学の種子を見つけ
(
5
)
ることができなかったので、私は独力で哲学を死の床から呼び起したのである。
今日では、アテネでも二
nメディアでもエジプトのアレクサンドリアでもフェ―ーキアでも、二つのローマや……
(6)
その他の国々でも、学問の栄光はもはやない。
彼のこのような表現は、一種の決まり文句であって、類似の表現は他の時代にも見られる。しかし、プセルロスの場
合、その言葉はけっして嘘ではなかった。少しのちにアンナ
・コムネナも、「バシレイオス
・ポルフィP
ゲニトス
(パ
シレイオス
ニ世、在位九七六
I-0二五)からモノマコス帝(コンスタンティノス九世
‘10四ニー五五)の時
(
7
)
代には、学問研究は無視されていた」と述ぺている。事実、我々は十世紀半ばから十一世紀半ばにかけての学問
・教
育に関してはほとんど何も聞かないのである。この間の呈帝たちの多くは、軍人か成り上り者で、学問の保獲には無
関心であった。
このような悪条件の下で、ブセルロスが学問の逍を切り開いていったことは注目すぺき現象といえる。なぜならビ
ザンツの学問はこれまで国家・宮廷と教会を中心として栄えてきたのに対して、
開いたからである。
ス、同輩のヨハネス・クシフィリノス、
ここに初めて「民間」に学問の花が
しかもプセルロスは孤立した存在ではなかった。少し年長のヨハ
ネス
・マウロプース、
コンスクンティノス
・レイクーデースら、プセルロスと似た境遇で、同じよう
(8)
に古代の学問を学ぶ人々が当時のnンスクンティノープルにいたのである。彼らは互いに協力しつつ古代の学問の復
興に努めていた。彼らの多くは、私立学校を開き、教育に従事することによって生計を立てていた。
十一世紀前半の
コソスクンティノープルには、このような「知識人」たちを育くむ条件が、経済的にも思想的にも存在したのである
「知識人」の活動、十
一世紀「ルネサンス」の社会的背景については、第五章において詳述することにしたい。
プセル
ロスとイクロス
プセルロスの学問と思想ーー'十一世紀の「ルネサ
ンス」
1,_
プセル
ロスとイクロス
九一
(823) (822)
プセルロスとイタロス
たが、
問の総合であった。彼の哲学はプラトンとアリストテレスに基づくもので、
(
1
0
)
トン」と呼び、強い傾倒を示している。彼の哲学探究歴をみてみると、ブラトンから、
ス、イアンプリコス、そしてブロクロスと進んでおり、
かった。その上私は、
と彼は自慢している。
プセルロスは古代の学問に通していることを符りとしていた。
当時の一般の用晶法では、
また彼は、雷や地震が神の怒りであるということにも及問をもっており、
(20)
な説明を試みようとしていた。
九五
次にプセルロスの学問
・思想について検討を加えよぅ6
ブセルロスは古典古代の学問全般にわたる知閲を跨ってい
その中でも彼がとくに重視したのは、哲学と修辞学、とりわけ哲学であった。彼にとって哲学とはあらゆる学
プロティノス、
そのプラト
ン理解はいわゆる「新プラトン主義」的なもので
あったといえよう。プセルロスはギリシア哲学だけではなく、友人のクシフィリノスの指都を受けて、
a)
も通じ、法学教育にも携っていた。さらに彼は、魔術や「カルデア人の知恵」と呼ばれた占星術、古代エジプト人の
私は多数の哲学者を繕き、また修辞学にも多いに親んだ。プラトン……やアリストテレスの哲学を怠ることもな
(13)
カルデア人やエジブト人がすぐれていたところの諸学問にも通じていた。
「ヘレネー
(ギリシア
人)」「ヘレネーの知恵」という言葉には、「異教の」とか「愚かな」という意味が含まれていたが、
っては、むしろ肯定的な点味で用いられていか。彼ももちろん数虔なキリスト救徒であった0
では彼にとって、古代
の(異教の)哲労
・学問とキリスト教伯仰とはどのような形で両立していたのであろうか。
プセルロスは古代の学海を聖書解釈の手段として必要だと考えていた。彼は、
(
I
S
)
……論瑾学は、数会とは無繰のドグマではなく、……我々の求める真罪を発見するための唯一の方法である。
ロマノス三世時代
(10二八ー三四)宮廷において聖書研究が熱心に行なわれたにもかかわら
ず、重要な問題が明らかにされないままだったことの理由を、
彼は、当時はアリストテレ
スやプラトンの論理学(弁
(
1
6
)
庄法
・三段論法)がよく知られていなかったためであるとしている。
さらにブセ
ルロスには、「異教
・異端に陥らな
(17)
いためには、異教
・異端の何たるかをはっきりと知ることが必要である」という考え方もみられる。プセルロスは、
(
1
8
)
それにとどまらず、古代の学問それ自体に意義を認めていたように思われる。たとえば、彼は知諏を二つに分ける。
一方にはそれを知ることに価値がある知識、他方には知り、かつそれを信じるぺさ知磁0
前者が古代ヘレニズムの学
問、後者がキリスト教の哲学
・黙示であるが、プセルロ
スは前者について、その意裾をたとえば総主教宛の手紙で次
のように込ぺている。
あなたは理静できないからといって、カルデア人の知恵をパカにしているが、もしそれを知れば、カルデア人の
(19)
知恵には否定すぺきものと正しいものが混ってはいるが、多くの点では正しいということに気づくだろう。
アリストテレスの著作に甚きつつ、合理的
このような彼の懇度に対しては教会側から誓告が繰り返し発せられたようで、プセルロスは『年代記』の中でその
これらの理論を知ってはいても、それを信じてはいない人を、理性ある者はけっして非難しないだろう。しかし、
(21)
我々のキリストの教えに背を向けて、このような理論に走るならば、それは愚かな学問であると非難されよう。
私はこ
の学問(占星術)を習得した。
…
•••それにもかかわらず私は、
人の世のこと
が星の動き
によって定められ
(
8
)
るとは信じてはいない。
彼の弁解の仕方は、古代の学問は知ることに意義があり、キリスト教信仰という枠の中にとどまる限り、たとえ異教
ことに少しふれたのち、弁解を試みている。
と述べている。また、
学問にも通じていた。
ブセルロスとイクロス
ブセルロスにあ
0
ーマ法学に
ポルフィリ
とくにプラトンについては、「我がプラ
九四
(825) (824)
^注>
(1)
プ七ル0
スの前半生については、はじめにの(注1)
の文献の他に、K•N
.
Salhas, M
B, vol•V、pp.
3ふ1
所収の役の母への追悼文をお照せよ。
Ch•Diehl,
Fig"res
byzalltiミS
、vol.I, Paris, 19
08, pp. 29
0-316.もみよ。
訂しくは、井上浩一●十一世紀コンスクンティノーブルの
r払科大学』L
、中村賢二郎編書、
r郎市の社会史I
、‘、ネル
ヴァ書房、一九八一――年刊行予定、の第一立をみよ。
(2)
K•N
.
Sathas, MB
•vol.
V, p. 12.
(3)P. Le
merle, "
Le唸uvernement",pp.'227,Nぷ.
(4)
M
. Psi'!-8,
Chronographia•
vol.
I•p.
138.
など。
(5)
Ibid., p. 13
5.
(6)
Ibid., p. 1器
(
7
)
苔naComnena, Alexiad`•V
ol.
II•p
.
33.
(8)
筆者は枝らを「知磁人
intellectuels」と総称する。
「知識人ーと彼らの出現の背景について詳しくは、井上浩
-「十一世紀nンスクンティープルの『法科大学」」をみ
よ。
(9)
ブセル0
スとイクロス
プ七ルロス自身がそのr年代記」の中で日分の学問に
て、この学問を理解しようとした。けれどもそれについての完全な理解に達することはなかったし、
a)
いっている人々を信じようとも思わない。
以上検討を加えてきたプセル0
スの学問
・思想についてまとめておこう。彼は人間の環性の働きに限界があると考
えてはいた。しかしその限界の中では、古代から伝えられた哲学その他の学問の方法を駆使しようとしていた。また
古代の学問の研究を通じて、それがもつ知的
・合理的な性格にも気づいていた。人間の理性への全面的な信頼へは至
tユー▼▲ズム
っておらず、イクリア
・ルネサンスの人文主義にはなお遠いものであったが、それでも彼を「最初の偉大なヒューマ
ニスト」と呼ぶことは、さほど的外れでもないと思われる。
ギリシア哲学から占屋術にまで至る広い知的好奇心をもった。フセルロスのような人物は、当内のキリスト教世界で
は、異端者との告発はまぬがれ得ない運命だっただろう。我々は次にブセルロスに対する奔鑑・告発について考察し
ようと思うが、それに先立って、彼が行なった教育についてみてみたい。というのも、彼がその学問
・思想を開陳し、
人々に広く伝えたことが、プセルロスに対する告発の最大の原因だったと思われるからである。
みが認撤しうる叡知があるといっているのを、
ついて語っている記事がある。
gヽaphia•vol.I•pp
.
134,1器
(10)K•N
.
Sathas, M
B, vol.
V, p.
508.
(11)M. Psellos, Ch
ronographia, vol.
I. 135,136.
(12)p'Lemerle, "
Le唸uvernemen t" p. 215.
(13)
K•
N.
Sathas, M
B, vol.
V, p. 44
4.
(14)R. Browning, op. cit., p. 10.
(15)K•N
.
Sathas, M
B, vol.
V, p. 447.
(16)M. Psellos, Ch
r<mographia, vol.
I, p. 33.
(17)
J. M•Hussey
,
op. cit., p. 85.
(
1
8
)
J
,
Gouillard,0p. cit., p, 31
8.など
(19)K•N
.
Sathas, M
B, vol.
V, p. 449.
(
2
0
)
J
. M•Hussey
,
op. ci
t・・p. 81.
cf. C. M
ango, By,
zantium: The Empire of New Rome, L
ondon, 19
80,
p. 176.
(21)M. Psellos, Ch
rggraphia, vol.
II、p.77.
(22)
笠d•.
vol. I. p. 98.
(23)R. Bro
wning,0p. cit., pp. 10,11.
(24)M. p器
llos,Chronographia, v
゜I.p. 136.
私は聞いたことがあった。……私は、
M
九七
のものであれ、知
mにはそれ自体としての伍信があるというものであった。
G3)
プセルロスは古代の学問をふまえた上で信仰に対しても一定の合珂的・知的懇度をホしている。先にも述ぺたよ
うに、彼は弁証法という武器を使うことによって、キリストの教えをより良く理解できると考えており、自然現象に
ついても、合理的な解釈を求めようとしていた。人間の精神
・理性の及ばない世界があることを承認しつつも、彼は
その限界の中では、人間の精神・遅性を最大限に活用しようとしていた。その脱に彼にとっての最大の拠り所は、古
代の学問の方法だったのである。その反面、当時の神秘主表的な神学論に対しては一定の懐疑を示している。
もっとも学識ある哲学者たちが、あらゆる表現の及ばないところにあって、唯、賢明なる人の啓示を受けた魂の
理解したと
Psellos、ChrQtlo
•
私に許された限りにおい
プセルロスとイクロス
九六
(827) (826)
プセル
ロスが仲間の
「知識人」たちとともに、古代の学問に励んでいた頃、コンスタンティノープルには高等教育
機関は存在しなかった。布等教百機関11「大学」はようや
<-0四三
l七年頃に復興されるのであぶ5
アックレイア
テースの『歴史』の有名な次の一節が、
「大学設立」
研究者によってしばしば引用されてきた。
彼(コンスタンティノス九世、在位
一0四ニー五五)は法律家の学校ほuQ日。y
ふ^yoほ0
3ぶC
を建て、「法
を監視する人
て0送を
A&」を任命した。他方、
彼は崇高なる哲学にも配慮し、我々のうちでもっとも優れた知
識をもつ人物を、「哲学者の長
rrpoi{Jpo(nuv`CA0Q6pey」に任命した。そして若者たちに、教師のもとで哲学や
(
2
)
科学の勉強をするよう勧めた。
この記事に基いて、歴史家は、
コンスタンティノス九世が、「法科大学」「哲学大学」という二つの「帝国大学」を設
(3)
置したことを指摘し、十一世紀半ばにおける学問の復興を強誨するのが常である。「法科大学」
しく検討したことがあり、本稿では考察の対象外としたい。
さて哲学大学」についてであるが、「法科大学」に比ぺて疑問点、
(
4
)
るのである。その理由として、
大学」の名はみえず、「哲学者の長」を任命したとしか述ぺられていないこと。
(5)
「法科大学」には設立に際しての『勅令』が伝わっているが、「哲学大学」のそれにあたるものがないこと。
が挙げられる。しかしその反面、「法科大学」の『勅令』を詳しく検討すると、「哲学大学」の存在を窺わせるような
(6)
設立趣旨、「他の学問には固有の場所と教師があり、〔教師は〕地位を保証され、俸給を与えられている:....
0
」
(
7
)
学長の休暇の条項。「文法教師
TPapErBiへに認められている慣例に従って:.... 」
ここに我々は、文法などを教える国立の学校で「法科大学」に並ぷような「大学」の存在を推定することも可能なわ
けである。史料の一見相矛后するような証言をどう解釈するかは、「哲学大学」の性格を考える点でも冗要と思われ
るので、まずこの点を考察しよう。果してコンスタンティノス九世の「大学再興」
んで、「哲学大学」が設置されたのかどうかは疑問のあるところだが、
の長」(他の史料では多く、
5mxTocd臣u
℃…さod`庭としている)に任じられたことは確かである。そこで、プセルロ
スの教授暦を検討することによって、「大学復興」前後の状況を明らかにしようと思う。
コンスクンティノープルにおいて学問に励んでいた若きプセルロスは、同時に学校を開き、生徒を集め、教育にあ
(8)
たっていた。ある時その私立学校の生徒たちが、
プセルロ
スの意を受けて、彼の師であり、学問仲問でもある、また
当時宮廷において一定の影響力をもっていたヨハネス
・マウロプースのもとを訪れ、先生のプセルロスをしかるべき
学校の
「教師の地位
0pdyocgy8るg"d;eu」
皇
帝
そ
の
他
の
関
(
9
)
係者によろしく伝える旨答えたという。この運動の結果、プセルロスは控ソフィア付属の造ペトロスの学校i
6X0ぷ
(10)
Too
ncqPo0
の哲学教師となり、生徒たちもプセ
ルロスに従って新しい学校に移ったらしい。我々はここに教師ー生
徒の自然発生的な学校から、公的な制度としての学校への発展をみることもできよう。この事件の日付には諸説があ
るが、筆者は、ブセルロスが学者
・教師として名声を挙げつつも、まだ宮廷で力をもっていない時期、
(口)
ブセルロスとイクロス
条項もみられるのである。
り (口) り上記のアッタレイアテースの記事には、
プセルロスと「哲学大学」
プセルロスとイタロス
につけてくれるよう申し入れた。
マウロプースは、
九九
コンスタンテ
ともかく、
ミカエル
・プセルロスが「哲学者
の一斑として、「法科大学」
と並
A0U0c~oy
ふc)0送寄:i"fc
(
「法科大学」)
不明な点が多い。
を示す記慕として、
への言及はあるが、「哲学
存在そのものを疑う声すらあ
については別途に詳
九八
(829) (828)
プセルロスとイタロス
がかりとして、おおよそ次のようであったと推定できる。
10
に、「知識人」をそこに吸収したのである。
の設磁は旧来の学校制度をほとんど変えず
「法科大
なく、既存の中等学校の教師に
つまり、「哲学大学」
の名誉称号が与えられたのである。
「法科大
以上の分析から、「哲学大学」
ィノス九世即位直後と考える。プセルロス自身、著作の中で自分の出世について次のように述ぺているからである。
私はようやく宮廷の門にたどりついたが、それも苦労や試錬なしにできたのではなく、あらゆる学問や判断力、
(
1
1
)
自由作文に関する試験を受けた上でのことだった。
この記事は、コンスタンティノス九世が、家柄だけではなく、実力によっても、元老院・官庁
・裁判所に人材を抜擢
したことを述ぺた文に続くものなので、一般には、同帝によってプセルロスが宮廷の職に取り立てられたことを述べ
(12)
たものとされている。しかし登用にあたっての資格審査の内容からみで、筆者は彼が聖ペトロスの学校教師に任じら
れたことを指すとみたい。続いてプセルロスは、自分と友人で法学者のクシフィリノスとが、それぞれ、哲学
・修辞学
と法学の指導者として活躍したこと、それを見て皇帝が二人に学問を仕事として与えたことを述べぷ6
学問を仕事と
して与えたということは、アッタレイアテースの伝える「哲学大学長」「法科大学長」任命のことを指すのであろう。
の設立の事惜は次のようであったと結論できる。私立学校を経営していたプセルロ
スは、
生徒ぐるみの運動で、聖ペトロスの学校の教師の地位を得た。この学校で彼は、自分の広い学識をもとに高度
な教育を行なっていた。プセルロスの学識を高く評価したコンスタンティノス九世は、
法学教育の改革11「法科大
学
」
設
立
と
平
行
し
て
、
彼
に
「
哲
学
大
学
長
」
の
称
号
を
与
え
た
の
で
あ
る
。
の
方
は
新
設
さ
れ
た
の
で
は
「哲学大学長」
ァッタレイアテースが
学」の設立しか述ぺていないこと、逆に「法科大学」の『勅令』には文法等を教える国立の学校の存在が確認できる
こと、研究者を悩ませているこの二つの史料間の矛盾は、こう解釈することで説明できると筆者は考える。
学」の設置が教育制度の大きな改革であったのに対して、「哲学大学」
「哲学大学長」の地位は名誉咸的なものではあったが、それでもやはり若干の権限をもっていた。学長のプセルロ
スが書いた二通の書簡がそれを示している。第一の害簡は、カルコプラテイアの学校(中等学校)の教師にあてたも
(")
ので、国庫から下された「助成金」をプセルロスが各学校に対して配分していたことを伝えている。配分額について
ただ、「法科大学長」
不平をいったカルコプラテイアの教師に対して、。フセルロスは、
「君は哲学者であることを、言葉においてではなく、
行為に命いて示さなければならないーos」と非難している。第二の書簡は総主教宛のものでディアコニッサの学校(中
/16)
等学校)の教師を聖ペトロスの学校(「哲学大学」)に迎えたい旨申し出ている。以上二通の書簡から、「哲学大学長」
は都の各学校に対して、財
政
面
と
人
事
面
で
一
定
の
権
限
を
行
使
し
て
い
た
こ
と
が
わ
か
る
°
が
法
学
教
育においてもっていたような独占的な権限はなかったようである。最終的人事梱はもたなかったし、配分の対象とな
(g
った「助成金」も臨時のものであったらしい。
「法科大学」の『設立勅令』のような文書史料がないため、「哲学大学」
の制度面はほとんどわからない。
^2)
その教育内容については、みずからの学修の過程と教育について述ぺたプセルロスの文章、同じくプセルロスが、「大
(19)
学」の教師であったニケタスやマウロプースヘの追悼文
・賛辞の中で、彼らの教育について述べている部分などを手
反面、
初等教育を終えて、聖ペ
トロスの学校ー「哲学大学」に入学した者は、ニケタスから文法を学ぶ。ニケタスの文法
の講義には、正字法とフィロロギーが含まれ、ギリシア著作家の作品の講読が行なわれる。ニケタスの講義は、単な
(20)
る文法教育ではなく、文章の美しさ、その真髄にまで及ぶものであったといわれている。恐らく、初等学校の文法を
復習しつつ、より高度な学問に進むための予科といった意味合いの講座であったと思われる。
(
2
1
)
修辞学(雄弁術)はこの「大学」の重要科目である°担当教授はマウロプースであったと推定されている。文法
・
プセルロスとイタロス
100 (831) (830)
修辞学を終えた学生は、算術
・幾何学
・音楽
・天文学を学んだ。担当はプセル
ロス自身であったらしい。彼は
『年代
(
2
2
)
記』の中で、目分はこれらの学問の研究に没頭したと述べている。
たので、
「哲学大学」における最上級の課程として哲学があり、プセル
ロスが直接指導した。先にも述べたようにプセルロ
スは、個々の学問を修め、それらの総合として哲学を学んだという。なお彼の哲学観などについては、前章で詳述し
ここでは繰り返さない。いずれにしても彼は自信をもって、かなり「大胆に」古代の哲学を講義したのであ
(
2
3
)
授業の方法にも特色があった。討論
・演習が重視されたことである。ここにもプラトンの影磐がみられるが、自由
(
“
)
な討論を通じて真理の発見に至るという考え方は、+世紀前半のいわゆるマケドニア朝ルネサンスの宮廷文化11百科
全書的知識の集成事業の精神とは別の、より「ルネサンス」という言葉にふさわしい学問精神であるといえるだろ
以上のような特色をもった
「哲学大学」は多くの若者を引きつけた。ある研究者は、彼の授業の人気ぷりを、十二
(お)
世紀フランスの有名なアベラール
(10七九
I-―四二)の講義の人気にたとえている。単純な比較は許されないだ
ろうが、学問
・教育において、
十
一世紀前半のコンスタンティノープルには、「+二世紀ルネサンス」と称された十
二世紀の西欧によく似た現象がみられることは確かであろう。
以上、プセルロスを学長とした「哲学大学」について簡単な考察を加えた。+一世紀前半のコ
ンスタンティノープ
ルに現われた「知識人」たちによる古代の学問の復興を背景として設立されたこの
「大学」は、当時のルネサンス的
精神」を体現するものであった。しかし、民間の「知識人」によ
っておこされた古典の復興運動が、国家と結びつい
たこと、大学が「帝国大学」という形をとったところに、
ろん、「哲学大学」さえも帝国の政治、その変動によって深く影響されることになるだろう。
^注>
(
1
)
「大学」の設立時期については、井上浩
一「十一世紀
コンスクンティノープルの「法科大学』」第二章をみよ。
(2
)
M
ichael Attaleiates, H
istoria, e
d., I•閲
kker
,
陸目1853,p. 21.
(3)
G. Os
trogorsky, op. cit., S. 271.米田治泰
rビザ
ンツ帝国」、角川書店、一九七七年、一六九ー一七一ベー
ジなど。
(
4
)
W. Wolska,gnus
"Les ecoles de P器lloset de
各philinsous Constantin IX Monomaque'、》
T
M.6,
1976, pp. 232
,233.
(5)F•Dolgar
.
Regesten der Kaiserurknuden des
ostromischen Reiches, M
iinchen-Berlin, 19
24,65. n.
863. I.
Cozza,Luzi, "
De legum custode et athenaeo
Cons tan tinopoli tano•Decretum器u
novella imp. Con,
stantini Monomachi descripta a loanne Euchaitensi
et ab Angelo Card. M
ai latine vera‘、Studie docu'
menti di storia e diritto、5、1884,pp. 28
9,316.
]us Graecoromanum、}GR.ed.、I.Nepos,P.Nepos,
Athens, 19
31, vol.
I, pp. 618,627.
(6)
I. CoNNa,Luzi,0p. cit., p. 30
0. ]GR., vol. I, p. 62
1.
う。 ろう。
プセルロスとイタロス
プセルロスとイタロス
(
7
)
I
.
Cozza,Luzi, op. cit., p. 305. JGR., vol. I, p. 62
3.
(8)P. Le
merle, "
Le gouvemement‘, pp. 215,221.
(9)
Ibid.、pp.221,223, W. W
olska,Conus、op.cit .. p.
228.
(10)P. Le
merle, "
Le gouvernement", pp. 231ー
233.R.
Browning, "
The Patriarchal SchgI at Constantinople
in the Twelfth Century:‘•
Byzantion
、32,
1962, pp. 172,
173.
J. M•
Hussey
,
op. cit.p`p,59,8.
(11)K•N
.
Sathas, M
B., vol. IV, p. 431.
(12)P. Le
merle, "
Le gouvernement", p. 20
4.など。
(13)K
•N·Sa
thas
,
M
B., vol. IV`pp. 433-434.
(14)
Ibid., pp. 428,
430.
(15)
Ibid., p. 43
0.
(16)
Ibid., p. 42
0,421.
(17)W. Wo
lska-gnus, op. cit., p. 231.
P. L
emerle,
••Le
gouvernement", pp. 22
5,226 ••
(18)M. Psellos, Ch
ronographiavol. I、pp.134、138.
(19)
K. N
••
Sathas, M
B., vol. IV, pp. 87,96 (ニケク
ス)、Ibid.,pp. 14
2'167 (マウロプース)。
(20)
Ibid.、p.92.
(21)
. J.
M. H
ussey, op. cit.疇
p.61.
-0=-
ピザンツ世界の大きな特色があった。「法科大学」 101 はもち
(833) (832)
ある。「大学」の運命は大きく呈帝の手にかかっていた。
10五四年には、
(22)M. Psellos, Ch
rrmographia, vo
l. I, p, 13
6.
(23)R. Br
owning. "
Enlightenment", pp. 9,lo.
(24)
マケドニア朝ルネサンスについては、和田廣
rピザン
ツ帝国」、教育社、一九八一年、一八九ーニ0五ページ。
当時の学問については、
P.Lemerle, Le pr,mier hum
•
ani$m
、byzミntin,
Paris, 197
1, pp. 26
71父lO.P. Speck,
Di、Koiseミiche
Universitatgnkgstantimopel.
プセルロスが学長として、
~力
「哲学大学長苛.RTo"広令‘
へioddPeu」の称号の保有者は、十一ーニ世紀を通じてしばしば史料に現われること
(
1
)
から、「哲学大学」はーニ
0四年まで存続したとする説がある一方、その称号はすでに単なる名営称号となっており、
(
2
)
「哲学大学」は実体としてはきわめて短命であったという見解もある。この問題自体については、次章での考察をも
合わせて、筆者の考えをのちに示すこととして、本章では、
設立以降の「哲学大学」、とくに学長のプセルロスヘの攻
撃、またそれに対する彼の反論についてみてみよう。
前幸末でも述ぺたように、ビザンツ世界では学問さえも集権化し、帝国の政治と結びつかざるを待なかった。都市
nンスクンティノープルを母胎として花開いた「十一世紀のルネサンス」も、まもなく宮廷に吸収されていったので
世とプセルロス(「哲学大学長」)、クシフィリノス(「法科大学長」)ら「知識人」との関係が悪化するや、二人は身の
(
3
)
危険すら感じて、小アジアの修道院に引遁を余儀なくされるのである。この時に「帝国大学」は一時閉鎖となっ
たら
、。
し「大学」の運命が呈帝に大きく依存していたことは右からも明らかであるが、問題はそれだけではなかった。それ
は修道院入りした二人の元学長のその後の身の振り方の途いによく現われている。「法科大学長」クシフィリノスは
九年にわたって修道生活を続け、ついに旧職には戻らなかったのに対して、プセル
ロスは、コ
ンスクンティノス九世
(
↓
)
の死
(10五五)後まもなく、都に戻り、「哲学大学長」の地位に再任され、七0年代までその地位にあった。「法科
•
(5)
大学」が再開されなかっ
た理由については、別途に考察を加えたことがあり、ここでは簡単に述ぺておく。「法科大
学」の設立は法学教育の大改革であった。従来、公証人
・弁談士のギルドがも
っていた法学教育権、法律證への資格
認定椛を奪い、「大学」が独占したのである。その結果、ギルド努力との間に激しい争いが生じ、
混乱が生じた°皇
他方、「哲学大学」は、
帝たちは「法科大学」の制度を断念せざるを得なかったのである。
の教育制度を根本的に変えるものではなかったから、
直接的な攻撃は受けずに済んだ。旦帝の怒りがとけさえすれ
ば、プセルロスは旧識にすぐ復娼できる状態にあったのである。
しかし、プセルロスと「哲学大学」には何の攻撃もなかったかといえば、けっしてそうではない。彼は歴代の皇帝
の政治顛問的地位にあったから、政敵からの非難もあった。しかしここでとりあげるのは、彼の学問
・教育に対する
教会からの綸難である。プセルロスはもちろん敬虔なキリスト教徒であったが、プラトンなど異教ギリシアの学問
・
哲学に深く傾倒していたことを、教会は不信の目で見ていた。プセルロスは教会の非態に対して、弁解し、自己の信
仰告白を行なわなければならなかった。
プセ
ルロスとイクロス
そして実際、
プ
セルロ
スに対する論難ーーー精神風土
の変化
のきざしーーl
プセルロスとイクロ
ス
-0五
すでにみたように、旧来
Miinchen, 1974.をみよ。
(2
5)
J. M•Hussey
,0,P.
cit., p. 64.なお、
R.Browning
`•En
lightenment
"、p.
21.
はプセルロスの精神をシャA、
トルのペルナール(一―二七年頃没)の
「進歩の精神」に
なぞらえ、
C.Mango, op. cit., p. 14
3.十一世紀ピザン
ツの「知識人」の運動が顧開に続いたならば、ピザンツも
アペラールと真の大学をもっただろうと述ぺている。
その学問
・思想を開陳した「哲学大学」はその後どのような歴史をたどったのであろう
皇帝コンスタンティノス九
-0四
(835) (834)
10五五年頃、プセルロスはコンスタンティノーヂル総主教のケルーラリオス(在位
一0四ー―-1五八)から信仰告
(
6
)
白を要求された。ギリシアの思想、魔術をも含む新プラトン主義哲学を教えたこと、
占星術を用いていることについ
て告発を受けたのである。プセルロスは次のように記している。
…・・・私の教育は非常に広範囲にわたっていたので……私が学ばない学問はひとつもないほどであった。占星術に
も関心をもっていたが、そのことゆえに私はいやが応でもやっかいな尋問を受けなければならなくなった。占星
術のすぺてについて勉強したことは私も認める、けれども、教会の長たちが禁止しているこのような学閤を不当
に用いたことは一度もない。私は「運命」のくじについてや悪しき霊に関する理論を知ってはいるが、星の位置
(
7
)
や姿が地上の世界で生じることに影響を与えるとは信じてはいない。
プセルロスはここでは、知ることと信じることとを区別することによって、非雄をかわそうとしているように思われ
る。右の問題に関して
一通の興味深い文書が現存している。総主教ケルーラリオスはその後皇帝イサキオス一世と対立
し、総主教座から追われることになったが、その時にプセルロスが皇帝イサキオスの意を受けて作成したケルーラリ
(
8
)
オス告発文書がそれである。この文書はケルーラリオスの突然の死のために結局公開されなかったが、その内容は皮
肉なことに、かつて自分が受けた非難をそのままケルーラリオスに浴せるというものである。「まったくギリシア人
(
9
)
に傲い、かつカルデア人の学問を信奉している。」と彼はケルーラリオスを非難した。続いてプセルロスはギリシア
の学問、
カルデア人の学問の何たるかについて記している。それは彼が自分の学識を誇ってのことでもあり、またか
(
1
0
)
かる異教
・異端に陥らないためにも、異教の学問に関する知識は必要だと考えていたからでもあった。しかし明らか
に、異教の学問に関する知識は両刃の剣であった。それゆえに現代の研究者の
一人はこのケルーラリオス告発文書
(
1
1
)
は、「プセルロス自身への告発文」でもあるといっている。
プセルロスはその後、総主教クシフィリノス
警告を受け、弁明
・反論しなければならなかった。
「我がプラトン」
(在位一〇六四ー七五)によってもプラトンに傾倒しすぎているとの
(
1
2)
で始まる、
クシフィリノス宛の有名な手紙にお
いてプセルロスは、プラトンやアリストテレスの学問は、
真理を追求
す
る
と
し
て
有
効
で
あ
る
と
説く。
(13)
り、彼にとっては、哲学的探究の方法
・技術は、神学の命題にも適用できるものだったのである。
その学問・教育が正統信仰からはずれているのでは、という疑惑をたびたびもたれながらも、結局プセルロスは、
一度も異端の烙印を押されることもなく、七
0年代まで「哲学大学長」として活躍を続けることができた。その理由
としては、彼の「無節操な」といわれるまでの変り身の速さ、保身術や、その哲学が体系的な思想というよりも、む
(
N
)
しろ
一種の「修辞学」に近かったことなどが指摘されている。本稿において筆者はプセルロス個人の要因よりも、そ
の時代背景の方に注目したいと思う。つまり十
一世紀ピザンツの精神風土という観点から、この問題を再考したいの
である。十一世紀ビザンツの精神
・思想風土は、世紀半ばを境として変化していった。それをよく示しているのはク
ンフィリノスの歩みであろう。彼は、プセルロスらとともにコンスタンティノープルの町でギリシア
・ローマの学問
た。しかし一
0五四年に彼は修道院に入り、九年間そこで募したの
の勉学
・教育に励み、のち「法科大学長」になっ
ち、都に戻って総主教となる。彼が総主教としてプセルロスのプうトン傾倒をたしなめたことはすでに述べた。彼は、
古代の学問の研究・教斉に熱心な「知識人」から、神に仕える敬虔な聖識者へと大きく変身したのである。真理の探
究・
認識においでも、。フセルロスが人間の理性の働き(それを活用するものとしての古代の学問)を
一定程度認めて
いたのに対して、クシフィリノスは、・今や神秘主義的・反主知主義的な、神の啓示に向
っていた。クシフィリノスの
-「転向」は、知的
・合理的精神の時代、古典文化の復興の時代が終りつつあったことを象徴するものといえよう。こ
プセルロスとイタロス
プセルロスとイタロス
「方法」
10七
-0六
つま
(837) (836)
プセルロスとイタロス
ついて講義したとアンナは伝えている。
10九
ただイク
ロスにあっ
て
のような精神風土の変化は、世紀末に至って決定的なものとなる。プセ
ルロスのあとを統いで「哲学大学長」となっ
たヨハ
ネス
・イタロスは、冷たい木枯しの吹く中で、「十一世紀ルネサン
ス」
の灯を守らなければならなかった。
A注>
(1)
L. Brehier, Le
s instiut(<ltls byzantines, Le r
nonde
byドミinvol. III, 1947 (1970), pp. 39
8. ~.;q、
J.
M.
Hussey, op. cit., pp. 7
0,71
は一時ふ3閉鎖はあったが、
まもなく再開されるとする。
(2)
W
. Wolska,Conu)l, op. cit., p. 24
3
など。
(3)
M
. Psellos,g§ographia, v
ol.
II, pp. 5
9,g.
65ff. cf. M. At
taleiates, op.cit., pp. 92
,93.よh4秤し
くは、井上浩―一十一世紀コンスタンティノープルの
r帝
国大学」」
(
4
)
M. p
器llgChronographia,
vol. II、p.78.
(
5
)
井上浩一「+一世紀コンスクンティノープルの『帝国
大学」」
ミカエル
・プセルロスは晩年に、「哲学大学長
5mけ0へr令yP(A00令ey」の地位を退き、
とを継いだのは、弟子のヨハネス
・イクロスであった。
イタロスは南イタリア出身で、シチリア品に住んでいたが、
(
1
)
戦争その他の事情で故郷を離れ、流浪ののち、
コ
ンスタンティノープルに来た。彼はまもなく
(
2
)
「学問の徒」たちと交わるようになり、プセルロスのもとで哲学を学んだ。。フセルロスの推挙によるものか、イタ。
スもまた宮廷で重用され、とくにミカエル七世
(10七
一ー七八)は彼に大きな信頼を寄せていた。
ルマン人が南イクリア全域を征服し、残されたビザンツ領をも併合しようとした時に、
外交使節として交渉に旅遣されたりもした。この時イタロスは島帝を哀切るような行動をとったらしいが、許されて
(
3
)
都に戻っている。その後まもなく彼は「哲学大学長」に就任した。
彼の著作には伝わっていないものもあり、また現在なお刊行されていないものもあって、イタロスの哲学
・思想の
(、3
全容はまだ明らかにはされていないここでは十二世紀の歴史家アンナ
.nムネナの述ぺるところに従って、彼の学
問内容を復元してみよう。
専念し、弁証法にも秀れていた。彼はプロクロス、
イクロスもまた、師プセルロス同様、その該博な知監を誇っていたが、とくにアリストテレスとプラトンの注釈に
イアンプリコスといった新プラトソ派の哲学者に
は、師以上に、
この点でも師プセルロスの学風を受け継いでいた。
アリストテレ
スヘ
の関心が深かっ
たようである。反面、彼は修辞学は苦手で、その文章は飾り気がな
く、文法上の誤りさえ見られると、アンナに非難されている。南イタリア出身というハンディが彼にはあったのであ
ろうか。この点では、修辞学を重視した師プセルロ
スとは対照的である。反面彼は、
討論において秀れ、「この男と
(
5
)
議論をした者は、彼の迷宮から抜け出ることはできなか
った」ほどで、若者の人気を集めた。彼の講義にもまた、若
い人々が群がったと伝えられ、学生の名も若千知られている。アリストテレスヘの深い関心、修辞学より弁証法を得
意としたことなどの点でプセルロスとの違いはあるが、新プラン●派哲学を中心として、古代の学問への幅広い知識
10七一年にノ
四イクロス裁判
—’
プセルロスとイタロス
10四0年代の末頃、
ボルフュリス、
「十一世紀ルネサンス」の終活ーー
(6)
]•Gouillard
,
op. cit., pp. 31
5,316.-J. M. Hussey,
0p.cit.、p.86.
(7)
M. P
sellos. Ch
r<mographia, vol.
11, p. 77.
(8)
L. Br
ehier, "Un discours incdil de Psellos. Ac
cu-
sation du Patriarche Michael Cerulaire‘、
Revuedヽs
さ,desGreques、16,1903, pp. 37
5,416.
(9)lbid., p. 38
8.
(10)J. M•
Hussey
,
op. cit., p. 85.
(11)
]•Gouilla
rd,
op. cit., p. 31
6.
(12)K. N. Sa思S、MB'•vol.V, pp. 44
4,451.
(13)
R
. Browning. "
Englihtenmenl:.、p.11.
(14)J. Go
uillard,0p.cit., pp. 32
1-324.など。
修道院に入った。彼のあ
イタロスは、ミカエル七世の
10八
(839) C 838)
。フセルロスとイタロス
いと認め、内在的実在として、
においては基本的にプセルロスを受け継いでおり、
けがれなくして神を生み給うた我らが母、
生神
イタロスは名実ともにやはりプセルロスの後継者であった。
しかるにイタロスの連命は師に比べてきびしいものであった。「哲学大学長」就任後まもなく‘10七六年ないし
七年に彼が教壇から悪しき教えをふりまいているとのうわさが立った。イタロスに理解を示していた皇帝ミカエル七
世(彼はプセルロスの教えを受けていた)はイタロス個人への攻架は避け、問題となった点について宗教会議に検討
(
6
)
をゆだねた。宗教会議は個人名を挙げることなく、これらの教説について異端を宣言した。イタロスは直接異端とさ
れ、破門されることはなく、なお
「哲学大学長」として教育を続けることは許されたが、彼を包む環境は次第にきび
が皇帝になると、「哲学大学長」イタロス
への攻撃は直接的なものとなってきた。‘‘、カエル七世時代のような異端問題に関する曖昧な態度に代って、新皇帝は
この問題を正面から取り上げようとしたのである。ちょうどアレクシオス一世即位の年に、南イタリアのノルマン人
が、ビザンツ征服に乗り出したことも、南イタリア出身のイクロスの立場を悪くしたと思われる。かって彼がノルマ
ン人のもとへ使節として派遣されながら、帝国に対して裏切り行為を働いたことも、皇帝の胸に浮んだであろう。イ
タロスの講義に若者が群がったのも、「イタロスは;…•多数の愚か者たちを反抗へとかき立て、
(
7
)
ぬ者どもを反乱させようとし」ているように思われたであろう。アレクシオス_世は「教会の教えとは無関係の教説
(
8
)
をふりまいている」イタロスと「哲学大学」に対する断固たる処臨を決意した。
彼の弟子の少なから
皇帝は兄のイサキオスにイクロスに対する処置を委ねた。
イサキオスはイタロスの教説を異端とした上で、皇帝の
名において彼を宗教会議に喚問した°皇帝が教会問題にも大きな権限をもっていたビザンツではあるが、このイタロ
(
9
)
ス裁判の手続きには問題が含まれているように思われる。実は、当時の総主教エウストラティオス・ガリダス
八一
ー四)自身がイタロスの影蓉を強く受けていたために、このような異例の措置がとられたのである。異例といえ
ば、裁判に圧力をかけるために市民が動員されたことも挙げられる。市民は総主教がイクロスを聖ソフィア内に保護
イタロスを連れ出そうとしたという。
したことを怒って、教会へ押しかけ、
宗教会議による審問の結果、イクロスの異端教説は一ーケ条にまとめられ、彼は破門された。イタロス破門の一―
(
1
1
)
ケ条は現在でもギリシア正教会では毎年読み上げられている。―
一ケ条には順序の乱れなど若干の混乱があるが、そ
(
1
2)
の内容を整理すると、イタロスが異端とされた理由は主に次の三点であったといえる。
り古代の(異教の)知識を教会の教えに優越させたこと、あるいは少なくとも教会の教えとは無関係に、古代の
(第七)、
ヘレネー(ギリシア人)の学問におぽれ、
説に従い、真理であるかの如く信じ込み、
かつ教育のためだけにそれを学ぷのではなく、その愚かな教
その教説が確実なことであるかのようにそれに身をささげ、.秘かにあ
(13)
いは公然と、他の人々をそれに引き込み、何の疑いももたずに教えていることについて、破門とする。
(第八)、その他の神秘的な説とともに、我々の創造の教説さえも自分勝手に作り変え、プラトンのイデアを正し
物質はイデアから形作られると主張して、
我らの救世主や、
上げ、創造者としてすぺてのものに始まりと終りを絶対的な力でもって定め給うたところの創造主の自由意志に
(
U
)
公然と異を説えたことについて、破門とする。
りキリスト教の教理に哲学の原理、理性を適用したこと。
一途な信仰や魂の底から、
(第六)、純粋で、
回世界の起椋や人間の運命に関するプラトン的解釈O•
知識におぼれていること。
10八一年、
アレクシオスー
世nムネノス
しいものとなりつつあった。
70フセルロスとイタロス
(在位一〇八一ー―
-l八)
あらゆるものを無から存在へと作り
(10
―10
(841) (840)
プセルロスとイタロス
女、そしてその他の聖人たちの奇蹟を信じず、ソフィスト的な表現や論理でもって、それらを不可能であると否
定したり、あるいは都合の良いように偽ったり、自分自身の考えに従って解釈しようとすることについて、破門
(15)
とする。
以上、代表的な条項のみの紹介にとどめるが、ここに挙げた破門理由はすぺて、すでにプセルロスの学問・思想の
中に我々が確認しえたものばかりであることに注意したい。
二人の運命の差は、プセ
ルロスがその学問
・思想を巧み
それはさておき、イタロス裁判、その破門宣言は、一
言でいえば、哲学の研究を、神学に従属させる、神学に従属
(16)
するもの以外は禁止するということを意味していた。それは、
ノス王朝時代、
ビザンツ帝国はかつての繁栄をとり戻しはした。しかし文化的には衰退状況を隠しきれず、とくに哲
学は姿を消してしまっている°確かに我々は、
存在を知ってはいる。だが、
H
哲学大学」
イタロス以降にも何人かの「哲学大学長苛
30へi
色てでへさ気peて」
の存続を認めることはできないのではないだろうか。プセルロスやイタロ
スにみられたような精神、古代の哲学(プラトン・
アリストテレス)への強い候倒はもう見られず、学問・教育は国
家
・教会のきびしい統制下に匠かれたのである。
nムネノス王朝時代の
「哲学大学長」のひとり、
アンキアロスの、、、カエルは就任後まもなく(
一・一六五年ないし六
(18)
を迎えて、就任講演を行った。この講演はコムネノス朝時代の学
問状況に関しても、貴重な史料である。要点だけ記すと、皇帝マヌ・エルは哲学を蘇らせ、
ミカエルを
「哲
学大学長」にし、国庫から給料を与えることとした0
ミカエルの仕亭は、誤ま
った、偽りの教説を取り除き、哲学に
よって異端と戦うことにある。そのためにとくにアリストテレスの
『気象論
Meteorologica』の研究を通じて、創造
主の叡知を明らかにすることが大切である。右の要約からも明らかなように、
ミカエルの「哲学大学長」就任は、
「哲学は神学の下侯であった。」実際、彼が
かってのような哲学研究の再開を意味するのではない。今や、
学長」に任じられた最大の原因は、当時、新プラトン主義的傾向をもつ異端が拡がり始めたのを取り締るためであ
(
1
9
)
った。このミカ
エルがその後まもなく
――七
0年にコンスタンティノープル総主教に就任したことも、合わせて付言
イタロス裁判はビザンツ思想史のーつの画期であった。プセルロスに始まる
「哲学大学」もイタロスの破門によっ
て、実質的に閉鎖されたといってよいであろう。最後に我々はプセルロスとイタロスという二人の哲学者の運命を通
じて、十一世紀ビザンツ帝国の思想風土の変化といったものを明らかにしたいと思う。
A注>
(
1
)
イタロスの経歴を伝える史料としては、ビmagm.
nena, A
lexiade, vol.
II、pp.32
、40.が詳しい。
(2)
Ibid.
p`. 34.
(3)
Ibid., p.
35. (1)1111,ToS,↓Cくさざ念
g).
(
4
)
はじめにの注田参照。
(5)Anna Comnena, Al
exiade, -V!)l.
II, p. 36.
(6)10七六ないし七年の宗教会議については史料は現存
しない。我々は
一〇八二年の審問から復元できるだけであ
る。
F•• Dolger
,
Regestn, n。
1078.
(
7
)
A目ag
目ena,Alexiade, vol.
II, p. 38.
しておきたい。
七年)、皇帝マヌエル一世(在位―
―四三ー八0)
イタロスが
Ibid., p. 39.
イクロス裁判については、J.M•
Hu
ssey
,
op. cit.,
pp. 90
-94_.
の他に、
J.
Gouillard, "
Le Synodicon de
l'orthodoxie'', T
M., 2, 19
67. pp. 18
8,202が辞t
しい。
(10)Anna Comnena, Al
exiade, vo
l. II, p. 39.
(
1
1
)
J
. Gouillard
,•Le
Synodicon', pp. 57ー
6l.cf.、R.
Browning,。Enlightenment",p. 14.
(12)
J.
Gouillard, "
Le Synodicon:・, p. 192.
(13)
Ibid., p. 59.第十
一項も参照せよ。
(14)
Ibid., p. 59.第一一項も4乞照。
(15)
Ibid., p. 59.
(
8
)
(
9
)
勝利者、
「哲学大
三
の
「十一世紀のルネサンス」にとどめを刺した。コムネ
果して問題はそれだけであろうか。
な修辞学でもって表現したのに対して、
「粗野に」
「索窟に」表現した点にあるとよくいわれる。しかし
。フセルロスとイタロス
(843) (8位)
プセルロスとイタロス
(16)]•M•
Hussey
,0p.
cit., p, 93. R. Browning
.•En
,
lightenment", p. 15.後者は教育に対する国家・教会の
統制の強化にも注目している。
(17)R. Browning, "
E巳ightenment'‘,p.'16. F. Fuchs,
0p.cu.』
s.47, 50 ff.
十一世紀ピザンツの精神風土
イタロスの粗野さ。彼らの学問、プセルロスの修辞学とイ
・タロスの弁証法。そし
彼らの性格、プセルロスの巧猾さと
てまたアレクシオス一
世即位当時の国際情勢もからみ合
っていたと思われる。これらの説明が間逹っているとは箪者
J
ロスとイタロス、二人の哲学者の歩んだ道の対照的ともいえる違いは、これまでさまざまに説明されてきた。
プセレ
も忌わない。しかし筆者は、ここで彼らが生きた時代背棄に目を向けたいと思う。つまり、プセルロスが活躍した時
代とイタロスが破門された時代との間には、精神
・思想上で大きな相違があったこと、プセ
ルロスを「もっとも仰大
イタロスを「野蛮で無法な」異端としたのは、彼らが生き、活躍した時代によ
な哲学者、最初の人文主義者」とし、
るところが大きかったこと、を明らかにしたい。
スクンティノー。フルもその繁栄の頂点に達した°歴代の
十
一世紀前半、ビザンツ帝国の版図は最大となり、都コン
しとわなかったから、大規校な建設工手が次々と行な
皇帝の多くは奢移好きで、都を飾るために国庫を係けることも、
社会秩序は大きく揺ぎ始めていた。地方の有力貴族(封建
われ、都は活況を呈した。同時に、繁栄の中で旧来の政治・
領主)たちは、富と権力を求めて都に移住してき芍都の商工業者たちは従来、ギルドに線椛さ
m2生産
・営業に関
して国家の強い統制を受けていたが、今やそのような統制の枠を破って、営業の規楼を拡大する有力市民層が捏頭す
る反面、繁栄にとり残され、没落する商工梁者も少なくなかった。こうして社会の流勁性、
S8ialmobility
が他の
時代には見られないほど高くなっていた。しかも歴代の皇帝たちは政治にはほとんど関心を示さなかった。有力貴族
(封建頷主)の擬頭による農村共同体
(国家の徴税単位)の変役、有力市民によるギルド規制の反古化とともに、取制
国家体制はゆるみ始めた。このような首都の経済的繁栄、社会の流勁化、専制国家体制のゆるみは、人々の問に自由
な雰囲気を作り出したであろう。かかる社会経済的条件、精神風土のもとではじめて、宮廷や教会とは開係なく、学
問の自由な研究
・教育が可能となったのである。十一世紀前半のプセルロスら「知識人」はこのような環境の中で、
古代の学問に接し、その魅力にとりつかれていった。
「知識人」
には多くの若者が集まり学問に励んでいた。これら「学問の徒」たちの名は今日まったく伝わっていないが、その多
(
ヽ
)
くの市民層の子弟ではなかったかと推定される。プセルロスたち「知識人」の多くがそうであったし、当時、宮を苔
稲していた市民屈が、さらなる社会的地位の上昇を求めて、学問の道に入っていったのであろう。+一世紀前半の
「ルネサンス」の社会的背景を、我々は当時上昇しつつあった首都の上層市民屈に求めることができるだろう。
都市コンスタンティノープルを背景とした「知識人」の活動をみて、コン
スタンティノス九世は彼らを宮廷に迎
(S)
ぇ、「帝国大学」の学長、教授とした。「大学」は高級官僚養成機関という性格を帯びた。それは、上層市民との提携
(
6
)
によって専制因家体制を再建しようとして行なわれた、官位販売
・元老院の市民への開放などの一連の政策と共通の
性格をもつものといえよう、ヴェネツィアなどイタリア都市の東地中海への進出によって、前途にかげりを見い出し
ていた
nンスタンティノープルの商人屈にとって、この政策は資本を商染から官位:エ地へと移し、汽族化する機会
を提供するものであった。同様に、「大学」もまた彼らの社会的地位の上昇を約束するものと思われたであろう。
五
プセルロスとイタロス
――五
はけっして孤立した存在ではなかった。そのまわり
Ibid., p. 184
(18)R. Bro目
ing
,`
•ANew Source on Byzantne•H
un,
garian Relations in the Twelfth Century", B
alkan
s`udies, 2,
1961, pp, 17
3,214.ICム工文が所収されてい
る。
(19)
――四
(845) (844)
有力市民の汝族化によってコンスタンティノープルの経済活動は大きな後退を見せ、ギルドが受けた打撃も深刻で
(
7
)
あった。皇帝の政策の恩恵にあずかれなかった中下層の市民11一般ギルド且は、その不洪を「市民闘争」という形で
の活勁が「帝国大学」
表現していく。上層市民の負族化が経済活動に打撃となったのと同様に、「知識人」
されたことは、
学問
・教育の将来に暗い影を投げかけるものであった。学閑
・教育の内容への国家統制が予想される
からである。このような意味において、
てよい。しかし当初はまだ国家による直接的千渉はなかった。
「哲学大学」設立当初、
この「大学」及び学長プセルロスに対する攻撃
・干渉はもっばら教会から
加えられてい
た。その攻撃が現実味を帯びてくるのは、教会人と精神風土を共有する社会屈が、次第に有力となり、帝国の政治の
みならず、精神
・思想風土をも規定するようになってきたことによる0
次の時代のビザンツ社会を勁かす社会層、そ
れは封建資族層であった。プセルロスらの主知主義、
初期ヒューマニズムと対比される、十一世紀ビザンツのもう
一
つの思想似向である、キリスト教神秘主義と、封建衰族層とは親和関係にあったといえる。たとえば十世紀の封建負
(8)
族の代表といわれるフォーカス家のニ
ケフォロス
ニ世(在位九六――T1九)の信仰の厚さは有名である°
反面彼は、古
代の学問にはまったくといっ
てよい程関心を示さなかっ
た。彼は信仰と戟争に
一身を献げ、彼にとってイスラム教徒
との戦争は、
神から与えられた使命であったといわれている。ベ
ルシア人やパビロンから来た者を弟子としているこ
(
9
)
とを跨らしげにE5っているプセルロスとは、明らかに別個の精神趾界といわなければならない。(なお、
プセルロスの栢神に、筆者は、十一世紀前半、国際貿易の中心地として繁栄した
nンスタンティノーブルの商人の精
神を直ね合わせてみたい思いがする。)
封建貴族の精神生活は、
彼らによる修道院建設事業にもよく現われている。上述の
ニケフォロスニ世は友人の修道
士アタナシオスを援助して、有名なラウラ修道院(アトス山)の建立に努力した。目分の最大の望みは「修道士にな
るこ
ci]であると、彼は絶えず口にしていた。
+
一世紀の事例として、ここではエウスクティオス・ボイラスの場合
を挙げておこう0
彼は小アジアの東方に十一の所領を手に入れ、開墾に努めると同時に、その地に修道院を建設して
(
11)
いる。同修道院に寄進された図吾の目録が、彼の『遠言状』の中に含まれており、興味深い。もちろん大部分がキリ
スト教関係の書物である。
十一世紀の封建口族の考え方、行勁様式を典型的に表わしているといわれる、ケカウメノスの『ストラテギ
コン』
には次のような一節がある。
ると、
暇で、司令官の仕事もない時には、本を読め。歴史作品や教会の否物を。軍人にとって、教会の教えや神学の杏
物からどんな利益があるのか、などとは言うな。なぜなら汝はそこから大いに
学ぷだろうから。注意深く読め
ば、教会の教えや教訓的な物語だけではなく、知恵や倫理や邸事のことも、そこから得ることであろう。実際、
(12)
旧約のほぽすぺては軍事害なのである。
〈
(13)
同じケカウメスは、「私は修辞学は知らない。学校でギリシア教育を受けなかった」といっていることを合わせてみ
そこに封建費族たちの精神生活を見る思いがするだろう。
このような封建貴族たちは、自分たちのうちで誰が主苺樅を握るかをめぐって相争いつつ、次第に帝国政治を規定
った。それと平行して、コンスタンティノープルの精神
・思想風土にも変化が現われてくる。
する存在に成長してい
主知主義、初期ヒューマニズムの「ルネサンス」の衰退と、それに代わるキリスト数神秘主義の優越である。我々は
すでに、「知識人」の一人で、古代ローマ法学を学ぴ、「法科大学長」となったクシフィリノスの「転向」を見た。「哲
学」大学」の教授であったマウロプースも同じ方向に歩む。プセルロスさえも、封建貴族の代表者イサキオス一世
nム
プセルロスとイクロス
ブセルロスとイタロス
――七 へ
と収欽
10四七年頃と推定される「帝国大学」の設立はひとつの画期をなすといっ
このような
1
一六
(847) (84.6)
ス以降、
プセルロスとイタロス
お
わ
り
ネノスが帝位につくゃ、
プセルロスとイタロス
(こ
長く後世に伝えんとして、『アレクシ
とくにアレクシオス
ー世時代に瀕発した異端を、・「市民闘争」
ー一九
の形を変えた表現では
持ち前の変り身の速さを発揮して、
ぶれ」といって非難するほどであった。しかしこの時期には封建貴族層の完全な支配体制はまだ樹立されえず、混乱
と内紛がなお続いていた。右のイサキオス一世もわずか二年で帝位を退き、修道院に入らなければならなかった。こ
の混沌とした状況の中を、。フセルロスは巧みに泳ぎ、彼と彼の「哲学大学」の中に、十一世紀前半の都市の「ルネサ
ンス精神」はからくも生き延びることができたのである。
封建岱族の支配体制は、
10八一年のコムネノス王朝の成立によ,っ
て確立した。ここに至ってもはや、哲学者の生
き残る道はなくなったといってよい。娘のアンナによって、その敬虔なる信仰ぷりが伝えられている皇帝アレクシオ
ス一世は、イクロス問題を重要視した。ここに国家と教会が
一体となって行なわれたのが、イタロス裁判であり、彼
.
の破門とともに、
「哲学大学」も事実上の閉鎖へと追い込まれたのである。
最後にこのイタロス裁判を十一世紀どザンツ都市史の中に位誼づけてみよう。まず注目されるのは、イタロス裁判
(
U
)
とほぼ同時に、アレクシオス
一世がヴェネツィアヘ大幅な商業特権を与えていることである。ヴェネツィアヘの商業
特権の付与が、
コンスタンティノープル商工業に対する大きな打撃であったことと、イタロス裁判が
「知識人」と
「大学」への弔饂であったことを考え合わせれば、我々は「知識人」の「ルネサンス」がすぐれて都市的、市民的な
文化運動であったことを再確認できるのではないだろうか。さらに問題は次のようにも展開できよう.o+―”世紀前半
の学問
・教育活動は、
ないか、と推測したことがあった。ここで改めて、
首都市民の精神・思想にその根源をもっていたことを確認しておきたい。
八注>
(
1
)
G. Ah
rweiler, "
Recherches sur la societe byzan-
tine au XI•
siecle: Nouvelles hierarchies et nouvelles
solidarites", TM., 6, 197
6, p. 10
3-104.
(2)
首都のギルドについてはさしあたり、井上浩一『ピザ
ンツ帝国』、二00ーニー
〇ページ。
・
(3)H.-G.Beck, "
Senat und Volk von Konstantin,
ope!", Bayer. A苓demieder Wissen. Phil
••His`•Kl
.
Sitzungsberichte, 1966・
など。
(
4
)
井上浩一
「十一世紀コンスタンティノープルの
r法科
大学』」第一章。
(5)
同右、第二草
(
6
)
井上浩一「―一世紀コンスタンティノープルの「市民
闘争」」r人文研究」二八ー九、
続いて、
の首都市民の活発な活動を母胎として生まれた、「知識人」
て、そのまま順調には展開されず、まず国家に吸収され(「帝国大学」)、
とともに、異端の烙印を受けて禁圧されてしまったのである。筆者はかつて「市民闘争史」を考察した際に、イタロ
コムネノス王朝時代、
ビザンツ商業のゆきづまりによっ
封建貴族層の帝国支配体制の確立
nムネノス朝の異端運動の多くは、.十一世紀、とくにその前半の
(
7
)
同右。
(
8
)
G. Ostrog。rsky,op. cit., S. 23
8.
(9)K
•N.
Sathas, M
B:, vol.
V, p. 50
8.
(10)
G. Os
trogorsky, op, cit., S. 23
8,
•
(11)P. Le
merle, "
Le testament d'Eustathios Boilas
(avril 1059)", Cinq etudes, pp. 13
,63.ボイラスの蔵
害については、
C.Mango,0p. cit., pp. 23
91240.
(12)Scaumenus, S
trategicon疇
ed.,8. Wa
ssilievsky,
<會
Jernstedt,Petersburg, 18
96, p. 19.
(13)
Ibid.、p.75.
(14)F•Dolger
,
Regesten, n0
1081.
(15)
井上浩
一「ー一世紀コンスクンティノープルの『市民
闘争」」六七ページ。
十二世紀の歴史家アンナ・コムネナは、
.父アレクシオス一世の業緒を讃え、
皇帝と対立した総主教ケルーラリオスを、「ヘレネーか
ー一八
(849) (以8)
オス一世伝』を書き記した。彼女は父の功績の一っとして、異端教説と戟い、
これを打ち破ったことを挙げている。
我々もまた彼女の叙述に従いながらイタロス裁判を考察してきた。彼女はイタロス
ヘの非難を効果的にするために、
しばしばプセルロスを引き合いに出している。プセルロスを、「生れついての知性と理解力を備え」「あらゆる知識を
完全に我が物としていて、ヘ
レネー(ギリシア人)の学問にも、カルデア人の科学にも造旨が深い」「偉大な」人物
(1)
とする一方で、彼女は、
その弟子のイタロ
スを「博学の印象を与えてはいるが」「野蛮で」「気短かで」「正確な知識
(2)
に欠けている」と酷評し、父アレクシオスが彼を異端として処罰したことを当然のことと考えている。
従来の。フセルロス及びイタロスヘの評価は、このアンナの叙述から大きく影菩されていたように思われる。しか
し、もしという表現が許されるとして、もし、アレクオス一世時代にプセルロスが生きていて、その学問を続けてい
(3)
たならば、どうであっただろうか。「ギリシア人の学問より聖書」に堂きをおいていた皇帝は、
恐らく、アンナが師
と仰ぐプセルロスをも異端審問に付し、破門したのではないだろうか。人間はみな「時代の子」である宿命からのが
本稿作成中に、
L.Clucas. Th
e Trial of John Halos and the Crisis of Intellectual Values_
in Byzantium in the
Eleventh Century, Mu
nchen,
1981.
の刊行を知ったが、執鉦段隋では入手できなかった。
〔付記〕
A注>
(1)Aga Comema, A
lexiade, vol.
II, p. 3
4.
れられないのではないだろうか。
プセル
ロスとイタロス
(2)
(3)
Ibid., pp. 3
5, 3
6, 3
9.
Ibid., p. 39.
ーニ0
(850)