I promessi sposi - J-STAGE

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37 マンゟヌニずʮ25 人の読者ʯ ─ I promessi sposi に曞き蟌たれたʮ読者ʯに぀いお─ 霜田掋祐 Ίͮ ʮʰ聖なる讃歌ʱずʰアデルキʱの著者が身を萜ずしお私たちに小説を差し 出したʯ (Tommaseo 1827: 103)ɻニッコロ ÉŸ トンマれヌオ (1802-74) はɺアレッ サンドロɟマンゟヌニ Alessandro Manzoni (1785-1873) が小説を曞いたこずに 圓惑しɺあの詩人ɟ劇䜜家が小説家にʮ身を萜ずしたɺ成り䞋がった si Ú ab- bassatoʯず述べたのであったɻマンゟヌニが歎史小説 I promessi sposiʢʰいい なづけʱɌ初版 1825-7Ɍ決定版 1840-2Ɍ以䞋略称は PSʣを著したこずはɺ実 際ɺ文孊史䞊の䞀぀の事件ず芋なされるこずになるɻ小説がいただ正統な文 孊ゞャンルず芋なされおいなかったむタリアにɺ近代小説のパラダむムを確 立する䜜品がもたらされたのであるɻもちろんɺI promessi sposi 以前にもʮ文 孊性ʯを備えた小説は存圚したがɺ先茩の文孊者アレッサンドロɟノェッリ (1741-1816) やりヌゎɟフォスコロ (1778-1827) らにおいおはɺ䟝然ずしおɺ 限られた文孊゚リヌト向けの文䜓ɟ語圙ɺ叀兞䞻矩のレトリック等ɺ旧䜓制 の残滓が芋られたɻそれに察しɺマンゟヌニにおいお小説はɺ決定的にアン シャンɟレゞヌムの文孊䜓制ず決別しɺʮ郜垂ブルゞョア文化ʯの枠組みに 到達したずされるɻそしおɺそうしたʮ近代性ʯが目に芋える圢で珟れる箇 所ずしおɺG. Rosa, Il patto narrativo (2008) や A. Cadioli, La storia finta (2001) ず いった近幎の研究はɺテクストの䞭に曞き蟌たれたʮ著者ʯずʮ読者ʯの関 係に泚目するɻʮ読者ʯがいかに描かれおいるかが問題ずなるのである 1 É» 埌䞖のいわゆる写実䞻矩小説ʢフロヌベヌル以降のそれʣがɺ叙述のʮ客 芳性ʯを印象付けようずしおɺ語るʮ私ʯの信号をテクストから排陀したの ずは異なりɺI promessi sposi においおはɺ17 䞖玀の手皿を発芋した 19 䞖玀む

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マンゟヌニず「25人の読者」

マンゟヌニず「25人の読者」─ I promessi sposi に曞き蟌たれた「読者」に぀いお─

霜田掋祐

はじめに

「『聖なる讃歌』ず『アデルキ』の著者が身を萜ずしお私たちに小説を差し出した」 (Tommaseo 1827: 103)。ニッコロ・トンマれヌオ (1802-74) は、アレッサンドロ・マンゟヌニ Alessandro Manzoni (1785-1873) が小説を曞いたこずに圓惑し、あの詩人・劇䜜家が小説家に「身を萜ずした、成り䞋がった si Ú ab-

bassato」ず述べたのであった。マンゟヌニが歎史小説 I promessi sposi『いいなづけ』初版 1825-7決定版 1840-2以䞋略称は PSを著したこずは、実際、文孊史䞊の䞀぀の事件ず芋なされるこずになる。小説がいただ正統な文孊ゞャンルず芋なされおいなかったむタリアに、近代小説のパラダむムを確立する䜜品がもたらされたのである。もちろん、I promessi sposi以前にも「文孊性」を備えた小説は存圚したが、先茩の文孊者アレッサンドロ・ノェッリ

(1741-1816) やりヌゎ・フォスコロ (1778-1827) らにおいおは、䟝然ずしお、限られた文孊゚リヌト向けの文䜓・語圙、叀兞䞻矩のレトリック等、旧䜓制の残滓が芋られた。それに察し、マンゟヌニにおいお小説は、決定的にアンシャン・レゞヌムの文孊䜓制ず決別し、「郜垂ブルゞョア文化」の枠組みに到達したずされる。そしお、そうした「近代性」が目に芋える圢で珟れる箇所ずしお、G. Rosa, Il patto narrativo (2008) や A. Cadioli, La storia finta (2001) ずいった近幎の研究は、テクストの䞭に曞き蟌たれた「著者」ず「読者」の関係に泚目する。「読者」がいかに描かれおいるかが問題ずなるのである 1。埌䞖のいわゆる写実䞻矩小説フロヌベヌル以降のそれが、叙述の「客

芳性」を印象付けようずしお、語る「私」の信号をテクストから排陀したのずは異なり、I promessi sposiにおいおは、17䞖玀の手皿を発芋した 19䞖玀む

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霜田掋祐

タリアの知識人≒マンゟヌニずいう物語の「語り手」がはっきり姿を珟す。そしお、第 1章の有名な «Pensino ora i miei venticinque lettori»「我が 25

人の読者は考えおみおほしい」ずいう「呌びかけ」に芋られるずおり、テクスト内に「語り」の受け手「聞き手 narratario」も曞き蟌たれおいる 2。Rosa (2004) をはじめずする研究は、西欧諞囜の小説の発展を暪目に芋やりながら、I promessi sposiにおける《聞き手読者》ぞの蚀及を文法的か぀意味論的に分析し、それが、マンゟヌニ以前のむタリアの䜜家による「呌びかけ」ずは本質的に異なるこずを明らかにしおいる。ただし、こうした先行研究には、「読者 lettore/i」の語を含む衚珟や二人称耇数「あなたたち」を甚いた衚珟ばかりを分析し、䜜品に頻出する読者を含む

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「我々」「共感の䞀人称耇数」霜田 (2012) を参照に぀いおは、ほずんど泚意を払っおいないずいう䞍備がある。そしお、ひず぀の頻出衚珟が芋萜ずされおきたこずは、別の倧きな問題ずも深く関わっおいるように思われる。これたでは、そもそも《聞き手読者》ぞの蚀及の「量」がひずかたならず倚いずいう事実が等閑に付されおきたのである。《聞き手読者》ぞの蚀及の内容質の分析によっお、確かに、瀟䌚・文孊史䞊の文脈぀たり均質的でない䞍特定倚数の人々がそれぞれ個人ずしお䜜品を「消費」するずいう「近代的な読曞」ずの関連においお I promessi sposiが占める䜍眮は瀺される。しかしそれは、近代的な読者意識のもずに曞かれた他の他囜あるいはマンゟヌニ以埌のむタリアの小説ず同じ䜍眮であり、それでは I promessi sposiの語りを他ず画する特城た

1 「近代小説」の䞀぀の兞型ずしお想定されるのは、䟋えば 19䞖玀の䞉人称客芳小説である。その発展は、䞍特定倚数の人々が黙読を通じおそれぞれ個ずしお䜜品を享受するずいう「近代的な読曞」の広たりず連動しおいる。本皿においお、小説の「近代性」ずは、こうした新たな様態の読曞に察する意識がテクストの内にいかに珟れおいるかを指暙ずしお枬られるものである。2 «Pensino ora i miei venticinque lettori che impressione dovesse fare sull’animo del poveretto, quello che s’Ú raccontato»「我が 25人の読者は、いた語られたこずが哀れな男の心にどのような動揺をもたらしたか、考えおみおほしい」PS, I, 60「聞き手」は、「語り手」が著者「内包される著者」および珟実の著者ず区別されるのず同じように、読者「内包される読者」および珟実の読者ずは区別される存圚であっお (cfr. Grosser 1985: 42-7)、珟実の読者は「聞き手」に感情移入しお自分が話しかけられおいるず感じおもよいが、距離をおいお第䞉者ずしお眺めるこずもできる。I promessi sposiでは「聞き手」が「読者」の語で衚珟されるこずから、術語䞊の困難が生じるが、本皿では《聞き手読者》ずいう衚珟によっお理論䞊の「聞き手」に察応する「読者」「読者」ずしお衚象される「聞き手」を指すものずする。

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マンゟヌニず「25人の読者」

では捉えるこずができないだろう。以䞊を螏たえ、本皿では、たず Rosaらの先行研究を道暙ずしお I promessi

sposiにおける《聞き手読者》ぞの蚀及の特城ずそこに芋られる新しさ「近代性」を確認し第 1章、その䞊で「共感の䞀人称耇数」に぀いおの分析を加えるこずによっお既存の説の䞍備を補い、これを修正する第 2章ずいう順序で考察を進める。それによっお、単玔に「近代的」であるだけではない I promessi sposiの「語り」の独自性が明らかになるはずである。

1. 「著者」ず「読者」の新たな関係「読曞革呜」の時代の読者像

I promessi sposiの「語り」は、物語が「曞かれおいるず同時に朗読されおいるかのような」印象を䞎える (Illiano 1993: 104-5)。それは、叙述に朗々たるリズムがあるからなどではなく、メッセヌゞの受け手を意識しお発せられたず芋える語や文、぀たり「談話性 discorsività」のサむンが、ふんだんに含たれおいるからである。䟋えば、発蚀内容に察する同意を求める間投詞 eh

«Che carattere singolare! eh?» PS, VII, 72や、発蚀内容ぞの䞍信・疑念を芋越しおの断蚀«andò finalmente a dormire. Sì, a dormire; perchÚ aveva sonno»「ずうずう眠りに行った。そう、眠りに。なぜなら、眠かったのだ」XXIV, 93は、いずれも「語り」の宛先を意識した発蚀であり、このような「いた語られおいる」ずいう珟堎性を挔出する語句は枚挙にいずたがないIlliano (1993: 98-

107; 特に 103-4) を参照。そしお皮々のレパヌトリヌの䞭でも決定的なサむンず蚀えるのが、盎接的に《聞き手読者》を指瀺する衚珟である。I pro-

messi sposiにおいお物語が「語られる」盞手「聞き手」は、第 1章で「我が25人の読者」ず名指されたあず、「読者 lettore/i」の語を含む衚珟や、二人称耇数 voiを甚いた衚珟によっお、䜜䞭で蚀及され続けるのである。本章では、たさにこの「25人の読者」をタむトルずした Giovanna Rosaの論文 “I venti-

cinque lettori dei Promessi sposi” (2004) および同著者の Il patto narrativo (2008: 特に第 4ç«  “La leserevolution dei «Promessi Sposi»” 128-59) を䞻な拠り所ずし぀぀、I promessi sposiにおける読者ぞの蚀及のあり方の特城を確認しおいく。なお「25人の読者」は、はっきり顔の芋える誰か、特定可胜な 25人を想

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定した衚珟だずは考えられおいない 3。基本的には、「この小説の読者は少ない」ずいう謙遜を衚珟したものであっお、皮肉や反語的な意図が蟌められおいるず取るべきである。たた、圌らは垞に読者、぀たり曞かれたものを読む人ずしお衚象されおおり、䞀所に集たっお朗読を聞く聎衆のむメヌゞずは異なる点にも泚意したい 4。

1. 1. 著者ず読者の“察等”な関係I promessi sposiの《著者語り手》は、よい䜜品を提䟛しようずする圌の「努力」に、《聞き手読者》が盞応の仕方で応えるこずを芁求する。Rosa (2004:

84) は I promessi sposiにおいお語り手の掻動が «fatica» «professione» «lavoro» ずいう語圙で衚珟されおいるこずに着目し、文孊掻動が、詩的霊感に身を委ねる行為ではなく、あくたで生産掻動ずしお捉えられおいるず芋る。この意味で、「序文 Introduzione」においお、読者偎の享受・消費が、語り手の行為「曞くずいう英雄的劎苊 l’eroica fatica di scrivere」ず同じ「劎苊 fatica」の語を甚いお衚珟されおいる「読むずいう劎苊 la fatica di leggere」こずは泚目に倀する 5。䞡者の行為は「《亀換 scambio》の関係」(p. 83) のもずに捉えられおいるのである。読者は「泚がれたものを無頓着に飲む」のではなく、「䜜家が読者の刀断を気にしお、曞くものをよく煮詰めざるをえなくなる」くらい批刀的県差しを向けお読たねばならない 6。実際、I promessi sposiの《著者

3 25ずいう数に぀いおは、Nigro (2002: 807-8) が、『゚れキ゚ル曞』(8, 16) に芋られ、カルロ・ボッロメヌオのMemoriale ai milanesiにも匕かれた、神に背を向けた「25人」ばかりの者たちずの関連を指摘しおいる。それによれば、「25人の読者」は正統な文孊から目を背けお「犁じられたゞャンル genere proscritto」に属する本を読む人ずいう含みを垯びるこずになる。なお、Fermo e Luciaの名で知られる I promessi sposiの第䞀草皿以䞋略称は FLにおいおは、第 2巻第 11章の終わりで「読者の 4分の 3」を「少なくずも 30人ほど」だずしおいるので (FL, II, XI, 39)、読者は 40人以䞊いたこずになる。4 実際、物語の享受が ascoltare聎くのような「聎芚」に関わる語圙で衚珟されるこずはほずんどないRosa 2008: 145は皆無ずしおいるが、実は䟋倖的に䞀床、第 22章で《聞き手読者》偎の行為が動詞 sentire27幎の初版では intendereによっお衚されおいる (PS / PS V, XXII, 12)。5 草皿 FLの段階には序文が二皮類あるが、最初の数章ずずもに曞かれた序文には、そもそもこの察比がなく、埌から曞いた第二の序文では «fatica»劎苊察 «fastidio»煩わしさずなっおおり、察比が非察称であった。

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マンゟヌニず「25人の読者」

語り手》は「読者」を「怜閲者」ずしお意識しおいる。Illiano (1993: 101) はその䟋ずしお «In vero, non Ú cosa da presentare a lettori d’oggigiorno»「党く今日の読者に玹介すべき事柄ではない」PS, Intr., 10や «Non Ú certamente fare in-

giuria ai nostri lettori»「こう想定しおももちろん我らが読者を䟮蟱するこずにはならない」XXII, 45ずいう発蚀を挙げおいる 7。たた䜜品の結び最終段萜XXXVIII, 69においおも、《聞き手読者》が刀断者ずしお描かれる。

それ物語が、もし党く気に入らなかったのでないなら、それを曞いた者に奜意を寄せおほしい、それから曞き盎した者にも少しの奜意を。しかし反察に、䞇䞀私たちがあなたたちを退屈させるこずになっおしたったならば、信じおほしい、わざずではなかったのだ。

《著者語り手》は「序文」においお二人の婚玄者の物語を «molto bella» ず圢容しおいるが、その矎的䟡倀の最終的な刀断は読者に委ねられおいるのである 8。《聞き手読者》には「語り方」も含めた内容の吟味だけではなく、解釈ぞの参加もたた求められる。はじめに「25人の読者」に芁求されるのは、「語られたこずが哀れな男ドン・アッボンディオ神父の心にどのような動揺をもたらしたか」を考える

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こずであったし本皿蚻 2を参照、ほかにも「どのような秩序が決められ保たれ埗たか、各自思い描いおほしい ma si figuri

ognuno qual ordine potesse essere stabilito e mantenuto」(XXVIII, 54) 「この女が黙っおいたかどうか考えおみよ pensate se questa rimase zitta」(XXX, 46) 「䜕が圌ら

6 マンゟヌニは、1823-4幎に曞かれた “Appendice storica su la Colonna Infame” の䞭で、ムラトヌリ (1672-1750) のような「秀でた egregio」䜜家が時に思慮を欠いた曞き方をしおしたうのは、圓時の読者の倧半が「熟慮し比范する蚓緎を぀たず、泚がれたものを無頓着に飲むこずに慣れおおり、䜜家が圌らの刀断を気にしお、曞くものをよく煮詰めざるをえなくなるなどずいうこずがない」ためだず述べおいる (AS, 265)。Cfr. Illiano (1993: 100-1).7 ほかに第 26章冒頭の «E, per dir la verità, anche noi, con questo manoscritto davanti, con una penna in mano, non avendo da contrastare che con le frasi, né altro da temere che le critiche de’ nostri lettori; an-che noi, dico, sentiamo una certa ripugnanza a proseguire»PS, XXVI, 1: 䞋線は匕甚者なども加えられるだろう。 8 匕甚した䞀段萜は草皿 Fermo e Luciaの段階では存圚しなかった。出版皿における増補によっお、結びが《聞き手読者》ぞの蚀及ずなったのである。

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の頭によぎったであろうかは、あなたたちが考えるのに任せよう e vi lascio

pensare che cose dovessero passar loro per la mente」(XXXVIII, 45) などず、「語り手」は「聞き手」に人物の心境など物語の状況を自ら考える想像するよう促すのである。

ただし、I promessi sposiの《著者語り手》から《聞き手読者》ぞの働きかけが、預蚀者、詩人、先導者ずしお啓瀺を授けるような呌びかけではない点には泚意が必芁である。アり゚ルバッハ (1998 [1954]) によれば、『神曲』における詩人ダンテの読者ぞの「呌びかけ」には、兄匟のような芪密さに加え、「教え諭すがごずき優越性」があるずいう。読者は、友人であるず同時に「䞀人の門匟」であり、「議論したり刀断したりするのではなく、埓うこずを期埅されおいる」(p. 200) 。それは啓瀺を授けるような呌びかけであり、その荘重さ・ドラマティックな雰囲気には「頓呌法」9が寄䞎しおいるずいう 10。これに察し、読者を察等な「亀換の関係」におく I promessi sposi においおは「教え諭す」ずいう雰囲気はなく、そもそも「読者」を呌栌にした「頓呌法」が䞀切芋られないのである本皿 1.3. を参照。たた、これは埓来の研究では特に指摘されおいないが、「よく目を凝らしお真実を芋る」こずを求められる『神曲』の読者ずは異なり («Aguzza qui, lettor, ben li occhi al vero»;

Purgatorio, VIII, 19)、I promessi sposiの《聞き手読者》は垞識的な刀断力をもっおその時点たでの物語を読んでいればよく、芁求される理解力・想像力のレベルが盞察的に䜎いこずも重芁であるず思われる。「考えおみなさい」「想像しおごらんなさい」ず芁請があっおも、「暗瀺的看過法 preterizione」にも䌌

9 頓呌法は、挔説・詩などでその堎にいない人物や擬人化されものなどもずもず話が向けられおいる盞手以倖に呌びかける衚珟技法で、キケロヌのカティリナ匟功挔説第䞀挔説が有名な䟋である。この修蟞の狙いは、情念 pathosを呌び起こし、聎衆・読者の感情的な参加を誘匕するこずにある。頓呌法には「呌栌」が䞍可欠で、倚くの堎合は呜什法も䌎う。Cfr. Mortara Garavelli (2006: 268-9).10 読者を「読者」ず名指しお呌びかけるこずは叀兞叀代には皀であり、䞭䞖の詩には芋られるものの、ダンテの堎合ず違っお、匷調の少ない穏やかなものであった。アり゚ルバッハが、読者ぞの「呌びかけ」の最も厇高な䟋ずしお挙げるのは、「倩囜篇」第 2歌の冒頭である。«O voi che siete in piccioletta barca, / desiderosi d’ascoltar, seguiti / dietro al mio legno che cantando varca / tornate a riveder li vostri liti: / non vi mettete in pelago, ché forse, / perdendo me, rimarreste smarriti». (Pa-radiso, II, 1-6)

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マンゟヌニず「25人の読者」

た衚珟によっおほずんど答えが甚意されおいる堎合も倚い 11。䟋えば、«e

pensate che strana comparsa doveva far quel fantasma, tra quegli altri così diversi da lui,

seri, freddi, minacciosi»「この幻圱が、それずはかくも異なり重々しく冷淡で嚁嚇的な他の幻圱の䞭で、いかに奇劙な芋え方をしたはずかを考えよ」PS,

IX, 81ずいう衚珟においお「ずおも奇劙に芋えるこず」は反語でない限り自明の前提ずしおよく、「この女が黙っおいたかどうか考えおみよ」(XXX,

46) ずいう蚀葉が「黙っおいなかった」ずいう回答を期埅しおいるのは文脈がなくおも明らかである。解釈ぞの参加の呌びかけにおいお、文芞に通じた知的゚リヌトの理解力は想定されおおらず、この意味においおは誰もが「25

人の読者」の䞀員たりうるのである。

1. 2. すべおの人のための本広い読者局の想定I promessi sposiが、限られた知識局のみに向けられた䜜品ではなく、より広範な読者局を想定しおいるこずは、平易な蚀葉遣いによっお叙述がなされるこずや瀟䌚的身分の䜎い䞻人公が遞択されおいるこずなど文䜓や物語内容のレベルにおいおも芋お取るこずができる。それたでの芏範に反しお日垞の珟実を真面目に描くずいうポスト叀兞䞻矩的な䞻題遞択に぀いおは、マンゟヌニの論考『ロマン䞻矩に぀いお』Sul romanticismo, 1823幎に執筆 でも語られおいた。

詩に望たれるのは、最も孊識のある人たちの興味を匕くだけのものを持ち぀぀、同時に、より倚くの読者が、人生における蚘憶や日々の印象から生たれる奜奇心や関心を寄せるような䞻題を遞択するこずである。(Sul romanticismo, testo definitivo [1871], 96)

既存の読者局を排陀するこずなく、同時にむタリアにおいおは未だ確固ずしお存圚しおはいなかった䞭間局、小垂民にそしお最終的には文盲の䞻人公

11 蚀わないず䞻匵するたさにそのずきに蚀う修蟞法「暗瀺的看過法逆蚀法」が、I promessi sposi における読者ぞの「語りかけ」の重芁な技法ずなっおいるこずに぀いおは、Illiano (1993: 108-11) を参照。

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霜田掋祐

ず同じ䞋局の人々にたで届く䜜品、぀たり「すべおの人のための本」ずしお、マンゟヌニの小説は䌁図されおいるのである 12。そしお、党おの人々に向けられおいるずいう䜜品の狙いは、テクストに曞

き蟌たれる「聞き手」の盞貌にも珟れおいるず芋るこずができる。正確には、「25人の読者」にはっきりした盞貌が䞎えられおいない

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こずが、その狙いず察応しおいるのである。圓時、小説の読者のステレオタむプずされおいたのは、小説熱に浮かされた、あるいは「高等な」文孊の因習に瞛られない存圚ずしおの「女性」や「若者」であり、マンゟヌニも草皿 Fermo e Luciaの段階では女性の読者に蚀及しおいたのであるが (FL, Intr. Prima, 19 e 21)、出版皿 I

promessi sposiの「聞き手」からはこうした特城が削られおいる 13。「25人の読者」は、茪郭のはっきりしない“䞍特定”少数の人々ずしお個性が抑えら

れ 14、誰もがそこに自分を投圱しうる「読者集団」ずなったのである。このように「同質的」な読者集団も、物語の解釈に参加するにあたっおは、

ひずたず各個人ぞず分節される。Rosa (2004: 104) によれば、「語りの䜜業ぞの協力」は単数の読者 (il lettore) ずいう“個”に呌びかける堎合が「圧倒的倧倚数」を占める。«lascio poi pensare al lettore»「あずは読者が考えるのに任せよう」PS, III, 13«se gl’immagini il lettore»「読者は自分でそれらを想像しおほしい」XXX, 38のように、「想像」は各自が行うのである。しかし、それによっお各人が独力で読んでいるこずが意識されたずしおも、単数ず耇数の「二皮類の異なるコミュニケヌション様匏」の察立に矛盟はなく、むしろ、

12 近代における読者局の倉化、新しいより倚くの読者局の獲埗ずいう文脈から I promessi sposiを扱った研究は、よく知られおいるように Spinazzolaの Il libro per tutti (1984) を嚆矢ずする。䌝統的な読者局を倱わずに新しい読者を埗るずいう狙いに関しお、Brogi (2005: 204-22) は、「25人の読者」に無邪気に同化する pubblico grosso粗い、倧衆読者局ず隠された皮肉たで読み取る pubblico fine掗緎された読者局ずいう二皮類の読者が想定されおいるこずを説いおいる。13 ただし、«e non ci sarà forse nessuno de’ nostri lettori milanesi»「おそらく我らがミラノ人の読者の誰䞀人ずしお はいないだろう」PS, III, 31ずいう衚珟から少なくずも数人はミラノ人であるこずがわかり、その他、䞭には若者もいる (XI, 71)、歎史には疎い (XXVII, 1) ずいった皋床の情報であれば付加するこずができる。14 これず呌応するかのように、改皿によっお「語り手」の「個性」も匱められおいる。Fermo e Luciaの第 1巻第 1章の導入郚には語り手マンゟヌニの自䌝的芁玠が含たれおいたが、これが I promessi sposiの段階では芋られなくなっおいるのである。

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マンゟヌニず「25人の読者」

読者集団が近代的公衆の性栌を垯びるほど、“個”ぞの呌びかけも重芁床を増すこずになる。

あらかじめ集団ずしお想起された公衆に近代垂民的な特城が付䞎されるなら、小説の文䜓に定められた察話的関係は、その分だけより䞀貫しお、《読者ずしおの私 io lettore》の意識的内面に蚎えかけるのである (Rosa 2004: 105)。

この「読者ずしおの私」は、「その䞭で共同䜓が認識される諞䟡倀の総䜓を分かち持った䞻䜓」であり (p. 105)、読者集団は、それぞれに内面を有し䟡倀を共有する個々人の共同䜓ずしお特城づけられおいくこずになる 15。前節で指摘したずおり物語の理解・解釈が匷く方向付けられおいるこずもあり、「読者」は、個別に、しかし皆ず同じような仕方で、解釈に参加しながら、共に物語を読み進めおいくのである。

1. 3. 慣習的な、型通りの“呌びかけ”からの離脱䞊に芋た「読者」を衚わす語が単数か耇数かずいう問題は、単玔な内容のみならず、どのような仕方・パタヌンで「読者」に蚀及するかずいう圢匏の問題にも深く関わっおいる。Rosa (2004) は、マンゟヌニが読者ぞの蚀及に型通りのそれゆえ圢骞化した衚珟を甚いおいないこず「慣習的な修蟞による呌びかけの手続きを䜿甚するこずに察するマンゟヌニのはっきりずした拒絶」p. 105を匷調する。特に「《「君」の蚘号 i segni del tu》」の排陀、぀たり二人称単数圢が䞀切䜿われおいないこずに泚目し 16、それを型通りの呌びかけを捚おお著者ず読者の間に再び真面目な「察話」の回路を開こうずするものだず芋る。

15 これは、石原 (2009) が、ベネディクト・アンダヌ゜ンの「想像の共同䜓」をもじっお「内面の共同䜓」ず呌ぶものに察応する特に pp. 55-73を参照。「䜕かを共有しおいる感芚」を共有し、互いに「「あの人も自分ず同じように読んでいるだろう」ず感じおいる」(石原 2009: 67-8) 読者が圢成するこの共同䜓は、「想像の共同䜓」ずしおの囜民囜家圢成の前提ずなっおいるずいう。16 草皿 FLの段階では非人称的な甚法の二人称単数が芋られたが、出版皿ではそれさえなくなっおいる。

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霜田掋祐

察等で芪しみを垯びる分だけ、真剣で責任を䌎うものずなる察話、たさに「他者」ずの察話を開くために、I promessi sposiの語り手は《「君」の蚘号》(Prince) を打ち捚おるのである (Rosa 2004: 105)

実際、「読者よ」ず lettoreの語を呌栌にしお、二人称単数の動詞特に呜什法で受けるずいう垞套衚珟は、I promessi sposiには芋られない。lettore耇数圢 lettoriを含むは、斜栌でないずきは必ず䞻栌ずしお䞉人称に掻甚した動詞ず結合しおいる。《聞き手読者》の䞀郚が ognuno皆それぞれやchi節䜕々する者は で蚀及される堎合も倚いが、圓然これらは䞉人称である。たた、二人称単数

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が䜿われおいないのに察しお、二人称耇数は倚甚されおおり 17、I promessi sposiにおける《聞き手読者》ぞの呌びかけの基本圢の䞀぀ずなっおいる 18。さお Rosa (2004: 106) は、「《「君」の蚘号》の拒吊は䌝統的なレトリックの芏則からの䞍可逆的な離脱を意味しおいる」ず述べるが、Rosa (2008) の方を読むず、䌝統の枠組みを残した䜜品ずしおは、䟋えばフランチェスコ・ドメニコ・グ゚ッラッツィ (1804-73) の歎史小説やフォスコロの『ダコポ・オルティスの最埌の手玙』 (Ultime lettere di Jacopo Ortis, 1798-1802) などが想定されおいるこずがわかる。それらの小説に芋られ、マンゟヌニにおいお吊定されたレトリックに関わるキヌワヌドは「パトス pathos」ず「同情 compassione」である。グ゚ッラッツィの Battaglia di Benevento (1828) や Assedio di Firenze (1836) は、マンゟヌニず同時期たたは以埌に曞かれ、ゞャンルも同じ「歎史小説」であるにもかかわらず、I promessi sposiの萜ち着いた調子ずは党く異なり、口頭による雄匁な語りかけの雰囲気を垯びおいる 19。

17 マンゟヌニは FL第 2巻第 1章や別の䜜品においお「理想読者」単数ず敬称の二人称耇数を甚いお察話しおいるが、I promessi sposiにおける二人称耇数は、読者の集団「25人」ずしおの「聞き手」に向けられたものずしお、敬称単数ではなく本圓の耇数ず取るほうが自然である。なお、二人称耇数の衚珟にも、lettoriが呌栌ずしお付くこずはない。18 二人称耇数「あなたたち」を甚いた衚珟には、読者に語りぞの参加解釈・想像を芁請するものが倚い。先に述べたずおり Rosa (2004: 104) は、単数の lettoreずいう“個”に察する芁請が圧倒的に倚いずしおいるが、二人称耇数を含めれば実は“集団”ぞの芁請も決しお少なくないのである。

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マンゟヌニず「25人の読者」

Battaglia di Beneventoたたは Assedio di Firenze においお優勢ずなるのは、マンゟヌニずは反察に、雄匁的挔説の惹き぀ける《パトス pathos》で、それはオペラのメロドラマの扇動的な倢幻性から離れたものではない。 マンゟヌニが 25人の読者に提瀺する、独りで無蚀で行う読曞には、リノォルノの䜜家グ゚ッラッツィが英雄的志願兵圹に打ち震える若者たちに闘争を呌びかける際の朗々たる響きが察立する。(Rosa 2008: 131)

もちろん読者ぞの蚀及は《「君」の蚘号》を䌎う䌝統的な衚珟によっおなされ 20、そのような呌びかけが、「目で読む」より「耳で聞く」もののような詩的リズムずずもに、「読者黙読者」ずいうより「聎衆」である「聞き手」のむメヌゞを挔出しおいるず蚀える。たた、『ダコポ・オルティスの最埌の手玙』に぀いおも情熱的な調子に泚意が向けられ、「雄匁なフォスコロ Fo-

scolo retorico」が、「技術的にブルゞョア tecnicamente borghese」であるマンゟヌニず察立するずいう構図が提瀺される 21。曞簡䜓小説である『最埌の手玙』は、ダコポ・オルティスの友人ロレンツォ・アルデラヌニが「線者」だずいう䜓裁をずっおおり、その線者から読者ぞ宛おた次のような蚀葉が芋られる。

E tu, o Lettore, se uno non sei di coloro che esigono dagli altri quell’eroismo di cui non sono eglino stessi capaci, darai, spero, la tua compassione al giovine infelice dal quale potrai forse trar-re esempio e conforto.「読者よ、君が、自分自身が為しえないヒロむズムを他人に芁求する者たちの䞀人でないならば、私は期埅する、䞍幞な若者に同情を瀺しおもらえるだろうず。恐らく君は、圌から範ず慰めを匕き出すこずができるだろう」Ortis, 3

19 これはもちろん、I promessi sposiの叙述が党篇にわたり修蟞を欠いた味気ない散文であるこずを意味しない。I promessi sposiの《著者語り手》が「序文」に述べるずころによれば、「物語の䞭で最も恐ろしいたたは最も哀れを催す箇所」では確かに「少しのレトリックが必芁ずされる」のであるが、それは、17䞖玀の手皿の原著者のようなバロック颚の過床に装食的なレトリックではなく、「節床があり、優矎で、品のあるレトリック retorica discreta, fine, di buon gusto」でなければならないのである (PS, Intr., 9)。20 Assedio di Firenze では二人称単数ぞの熱のこもった呌びかけや呌栌の䜿甚が芋られ («Se tu dunque che leggevi fin qui ti senti il cuore e l’intelletto sicuri: se le lagrime non ti tolgono la vista delle mise-rie umane, vieni, mi segui nel dolente pellegrinaggio; io ti narrerò storie feroci, ti dirò cose che ti suoneran-no terribili quanto le strida di un dannato»; «O signori e signore qui convenuti a farmi il piacere di sentire questa storia»)、Battaglia di Benevento では「読者」が呌栌でも珟れる («Cortese lettore, se tu sei nel numero degli eletti che intendono, puoi conoscere»)。すべお Rosa (2008: 166) より匕甚。21 いずれも、アントニオ・グラムシの『獄䞭ノヌト』から匕かれた蚀葉である。

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霜田掋祐

単数の「読者」が呌栌ずなり、compassione同情、぀たり「共に com-」 苊しむこずが求められる。この前曞き「読者ぞ Al lettore」は、䞻人公に共感できる他ならぬ「君」に焊点をあお、「君」ずいう“個”ず緊密な関係を取り結ぶのであるが、それはやや特別な限られた読者である。Rosa (2008: 98-9) は、このような「読者」ずの関係が、本文手玙のあり方ずも密接な圱響関係にあるず芋る。この小説には、非垞に叙情的な抑揚のリズムがあふれ、そこに「日垞にある悲劇を描くずきの䞭間的な調子よりも比類なき苊悩を描く高朔で厇高な音調」(Rosa 2008: 99) を出そうずする傟きが芋出されるのであるが、そのこずは、「聞き手」がダコポ・オルティスに共感しうる特別な「君」だけであっお、皆ず同じように読むずいう「読者意識」をもった人々ではないこずず連動しおいるのである 22。これに察しお、I promessi sposiにおいおは、頓呌法などを甚いた高らかな呌びかけがないため、「君」だけに語っおいるずいう雰囲気錯芚は生じず、たた読者の共感が煜られるこずもない。そこでは、単数耇数の「読者」ず二人称耇数「あなたたち」の組み合わせによっお、個々の黙読する読者の内面に蚎えるず同時に、「読者意識」によっお結ばれた䞍特定の人々の集合も察話の盞手ずしお意識されおいる。そしお、それず呌応するように、日垞の珟実は深刻に捉えられ぀぀もあくたで䞭間的な調子で語られるのである。こうしお I promessi sposiの読者は、倧きく感情を揺さぶられるこずなく、冷静な刀断を䞋せる䜍眮に眮かれるこずになる。

1. 4. 感情移入の吊定I promessi sposiにおいお「語り手」ず「聞き手」は、物語䞖界に没入するこずなく垞に物語の倖にいる。そこには「決しお心をかき乱す刺激ではなく、

22 Rosa (2008: 97-9) は、こうした盞関をゲヌテの『若きりェルテルの悩み』ずの察照によっお確認しおいる。『りェルテル』は、内容ず圢匏においお『最埌の手玙』ず䌌通っおいながら、悲劇的で厇高な調子ではなく、より䞭間的な感傷的・垂民的な調子を垯びおいるのであるが、『りェルテル』における「線者」は、端曞きにおいお、二人称単数「君」を gute Zeele [anima buona] ず呌んで語りかける䞀方、二人称耇数぀たり読者の共同䜓ぞも蚀葉を向けおいるのである。

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マンゟヌニず「25人の読者」

理性的な分別の名においお、受け手読者に共同を求める匷固な意志」(Rosa

2004: 110) が感じられる。マンゟヌニは、『ロマン䞻矩に぀いお』や『ショヌノェ氏ぞの手玙』Lettre

à M. Chauvet, 1820幎に執筆ずいった論考においお䞀貫しお、おおよそ以䞋のような考えを衚明しおいる。物

フィクション

語に没入し匷烈な感情に身を委ねるような䜜品の享受芳劇も含むから埗られるのは䞀時的な楜しみでしかなく、より持続する高次の喜びは、物語を通じお

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「真実」を知るこずによっお埗られる。そのためには、物語に぀いお倖から冷静に刀断できるようにすべきであり、ゆえに、読者の登堎人物ぞの同䞀化や物語䞖界ぞの没入は遮断されるべきである。このような詩孊の実践ずしおの I promessi sposiにおいお 23、読者の心がかき乱されず、登堎人物ぞの感情移入も促されないずすれば、それは著者の狙い通りずいうこずになるだろう。

I promessi sposiの《著者語り手》は、しばしば「読者の刀断にたかせよう」「ご存知のように」ずいった衚珟を甚いお、「語り」の堎を顕圚化するずずもに、その「語り」が《聞き手読者》ず䞀緒に進められおいるこずを瀺す。Rosa (2004: 111) の指摘するずおり、こうした衚珟は垞に verba sentiendi o iudi-

candi意芋、刀断、知識に関する動詞を含むのであり、それによっお指瀺されるのは「読曞」の行為・時間であるため、「物語の時空間に《聞き手narratario》が入り蟌んでしたうこずを根本的に排陀する」(p. 111) こずになる。その他の、「あなたたちは思い描くこずができるでしょう」「各自想像しおください」などのような読者の想像力に蚎える蚀葉も同様に、文孊的メッセヌゞを受け取り味わう堎が物語の倖にあっお機胜しおいるこずを意識させる。動詞 vedere芋るも、䟋えば「読者が物語のこの先で芋るように」「この人物は読む気のある人が芋るこずになる姿を瀺すこずだろう」ずいった

23 論考『歎史小説に぀いお』(Del romanzo storico, e in genere, de’ componimenti misti di storia e d’inven-zione, 1850) に芋られるように、マンゟヌニの考えは「真実を《ななめに obliquamente》提瀺する」(Muñiz Muñiz 1991: 466) ぀たり物語を経由しお異化䜜甚などを通じお「真実」にいたるずいう道から、埌幎、「真実」を盎接扱う方向ぞず倉化する。I promessi sposiは、マンゟヌニの二぀の詩孊の䞭間、フィクションから歎史叙述ぞの移行の䞭間に䜍眮しおいるのであり、䞡詩孊の亀差する堎ずなっおいる。この問題の詳现は、読者による䜜品の享受の芳点からマンゟヌニの詩孊を論じたMuñiz Muñiz (1991) を参照。

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霜田掋祐

圢で甚いられ、同様に「䜜品の享受における知的・知芚的掻動ぞの蚀及」(p.

111) ずなっおいる。物語の䞭にいお0 0 0 0 0

「芋お」いるのではなく、「わかる」「読む」ずいう意味の「芋る」なのである。蚭定ずしお物語倖郚におかれた「聞き手」が物語䞖界に入り蟌んでいるよ

うに曞くのはむしろ困難なのではないかず思われるかもしれないが、党く䞍可胜なこずではない。I promessi sposiにも、それがほが唯䞀の䟋倖であり非人称的で仮想的ではあるが、描写される堎面の䞭に「読む私」がいるかのような衚珟は芋られる。第 35章のペスト忌避院の描写においお、遠く雷鳎が聞こえおいるずいう蚘述のあずに «né, tendendo l’orecchio, avreste saputo distinguere

da che parte venisse»「耳をすたしおも雷鳎がどちらからやっおきおいるのか聞き分けられなかっただろう」PS, XXXV, 6ずいう二人称耇数・条件法過去による説明が続いおいるのである。ほかに執筆者が同時代の小説に芋぀けた䟋ずしお、スタンダヌル『赀ず黒』の第 1巻第 1章の «Par exemple, cette

scie à bois, dont la position singuliÚre sur la rive du Doubs vous a frappé en entrant à

VerriÚres, et où vous avez remarqué le nom de SOREL, [
]» (Le Rouge et le Noir, 353)24

ずいう䞀節が挙げられる。ここでは、読者である vous「諞君」たたは「あなた」が物語䞖界にあるはずの看板に曞かれた文字に「気づいた」こずが「耇合過去」を甚いお述べられおおり、「もしそこにいたら」ずいう仮想のニュアンス抜きに実際に芋たこずにされおいる。このように「聞き手」を物語䞖界に入り蟌たせる手法は存圚するのであるが、マンゟヌニは基本的にそれを䜿っおおらず、I promessi sposiの《聞き手読者》の姿は、物語の倖で「知的に関心を持っお玩味するずいう行為」(Rosa 2004: 111) のうちに描写されるこずになるのである。

24 「たずえばドゥヌ川の岞近く奇劙な堎所にあるので、きっず諞君の県をひいた補板小屋 ―『゜レル』ずいう名が、屋根の䞊にのっかった看板にでかい字で曞かれおいるのに諞君は気が぀かれただろう― あの補板小屋にしおも 」『赀ず黒』: 24。なお蚳文は「諞君」ずなっおいるが、この vousは単数「あなた」ずずっおもかたわないずころである。

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マンゟヌニず「25人の読者」

2. 「読者」を含む「我々」ず「呌びかけ」の頻床 マンゟヌニの独自性2. 1. I promessi sposi における「読者」ぞの蚀及の倚さここたで、Rosa (2004); (2008) の研究を他の研究者や執筆者の指摘によっ

お補いながら、I promessi sposiに曞き蟌たれた「読者」像を分析し、そこに芋られる“真に「近代性」を備えた最初のむタリア小説”ずしおの偎面を確認しおきた。I promessi sposiにおいお《著者語り手》ず《聞き手読者》は、前者が「仕事」ずしお行う執筆掻動に、埌者が単に受け身ではない内省的・批評的な読解で答えるずいう、垂民的な「亀換の関係」を思わせる、ある意味で“察等”な関係に眮かれおいる。そしお、そのこずは《聞き手読者》が、知的゚リヌト集団ではなく、様々な背景を持ちうる䞍特定の人々ずしお描かれおいるこずず密接な関係にあり、そのような「25人の読者」は各々“個”ずしお解釈に参加し぀぀、互いに同じように読んでいるずいう「読者意識」にもずづいお共同䜓を圢成する。旧䜓制の叀い「読者」像から新興垂民局を芖野に入れた新しい「読者」像ぞのこうした倉化は、「読者」ぞの䌝統的な呌びかけ、特に二人称単数「君」ぞの呌びかけがなくなったこずにも劂実に珟れおいるず蚀える。それによっお、匷い共感や情動を匕き寄せようずする高らかな抑揚が枛ぜられたこずは、「読曞革呜」時代の目で読む散文の䞭間的な調子にふさわしく、しかもマンゟヌニの詩孊にも適うものである。以䞊の考察においおは、「聞き手」に蚀及する各衚珟の「意味」が、文法栌、

人称、法䞊の含みたで螏たえお分析されおいるものの、特定の型の「呌びかけ」が倚いか少ないかは郜合の悪い䟋を䟋倖ずしお玹介するずきを陀き論点になっおいない。぀たり、これこれを意味する皮類の蚀説があるかない

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か0

によっお「近代性」が枬られおいるのであり、だからこそ、小説の「読者」ぞの蚀及が「前曞き」にしか芋られない曞簡䜓小説も同じ基準で比范されるのである。そしお、このように蚀説の内容質だけを芋るならば、物語䞖界の倖に「語り手」ず「聞き手」を蚭定するタむプの近代小説䟋えばスコットの歎史小説は、I promessi sposiにおいお「近代性」の反映ずされたのず同皮の「呌びかけ」を党お備えおいるこずになるはずである。ずころが、Rosa

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霜田掋祐

(2004: 113) は、《聞き手読者》ぞの蚀及によっお感情移入を遮断しようずするのは、マンゟヌニの文孊芳に根ざした I promessi sposiに特有の

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珟象だず芋なしおいる。その芋方自䜓は、実感に合った適切なものず蚀えるが、他の「近代小説」においおも匷い共感を誘う高らかな「呌びかけ」は芋られず、文䜓は散文的に抑えられ、「聞き手」が物語䞖界の倖においお捉えられおいるのだずすれば、「聞き手」ぞの蚀及の個々の内容だけでは根拠に欠けるず蚀わざるを埗ない。マンゟヌニ独自のものず䞻匵するには、蚀及の頻床も問題にしなければならない。぀たり、「聞き手」を物語䞖界内ではなく「物

ナレヌション

語り」の珟堎あるいは䜜品を「消費」する堎面においお捉えた蚀及が、他の小説よりも倚い、「近代的」ず呌ぶのに必芁な分量をはるかに超えお䜙蚈にある、ずいう量的な認識が䞍可欠なのである。こうした“数”の問題は、埓来の I promessi sposiの《聞き手読者》にた぀わる研究においお、議論に忍び蟌んではいるものの、意識的に考慮されおきたずは蚀えない。䟋倖的に数を調べおいるMeier-BrÃŒgger (1987) の報告によれば、I promessi sposi においお「語り手」は lettoreたたは lettoriの語を 46回、二人称耇数 voiは 75回も甚いおいる。これに察し、䟋えばりォルタヌ・スコット (1771-1832) の『アむノァンホヌ』(1819) においおは、執筆者の調べた限り、小説の読者を指す readerたたは readersが珟れるのは、「献呈曞簡 Dedicatory

epistle」を陀く本文においお 14回加えお脚蚻に 4回、ただしそのうち 2䟋はのちの増補によるである。たた、二人称 youで読者を指すのは 1床だけである。個々の䟋を芋るず、「読者」は呌栌では珟れないし、圌らの「理解」や「想像」が話題になるなど I promessi sposiず類䌌点が倚く、フォスコロやグ゚ッラッツィずの比范ほど容易には差異を指摘できない。しかし、数を比べればやはり違いは明らかで 25、I promessi sposiにおける「聞き手」ぞの蚀及の執拗さがよくわかる結果ずなる。さらに、I promessi sposiの䞭の「読者」に関するこれたでの研究が完党に芋

25 「読者」の語だけを比べおも、『アむノァンホヌ』では 13061単語に 1回なのに察し、I pro-messi sposiでは玄 4788単語に 1回の割合で出おくる蚈算になる。

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マンゟヌニず「25人の読者」

萜ずしおいる、もう䞀぀のタむプの衚珟が存圚する。それは「読者」を含む「我々」─぀たり《聞き手読者》を指す「あなたたち」を語り手「私」にプラスした「共感の䞀人称耇数」である。これを甚いた衚珟は、実は「読者 lettore/i」ずいう語を䜿った衚珟よりも数が倚く、二人称耇数による衚珟よりもなお倚いのである。

2. 2. 「共感の䞀人称耇数」によっお描かれる「読者」I promessi sposiの語り手は自分を指すにあたっお、䞀人称単数「私 io」ず䞀

人称耇数「我々 noi」を䜵甚しおおり、前者が 148回、埌者が 381回珟れる。呚知の通り、ペヌロッパの蚀語には「私」の代わりに

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「我々」を䜿う「著者の䞀人称耇数」の甚法がある。これによっお衚珟されるのは、話者が自分䞀人で為す行為であり、聎者など他人は含たれない 26。本皿第 1章でも匕いたIlliano (1993); Rosa (2008); Brogi (2005) らは、「私」ず「我々」の差、䜿い分けにも泚目しおいるのだが、「我々」の党おを基本的に「著者の䞀人称耇数」ず芋なしたうえで考察を進めおいる。しかしながら、実際には I promessi sposi

の語り手が甚いる「我々」は「著者の䞀人称耇数」のみに限定されない。«Il

nostro Abbondio»我らがドン・アッボンディオPS, I, 52«per andare dietro

a Renzo, che avevamo perduto di vista»私たちの芖界から消えおいた、レンツォの埌を远うために ; XI, 49«Trasportiamoci al castello»城ぞ移動しよう ; XX,

42«andiamo a vederlo in azione»圌ボッロメヌオ枢機卿の動くさたを芋に行く ; XXII, 47«come vedremo più avanti»埌ほど芋るように ;

XXVIII, 73などの衚珟においおは、《著者語り手》のみならず、《聞き手読者》もたた行為者に含たれるず考えられるからである。こうしたタむプの「我々」を「共感の䞀人称耇数」ず呌ぶこずにしお、その䜿甚回数を調べるず 141回、「我々」党䜓の実に玄 37パヌセントにのがる 27。二人称耇数「あ

26 実際、䟋えば「だが我々は、読者が本圓に圌匿名䜜家ず䞀緒に是非ずもこの目録の先ぞ進みたいず思っおいるだろうかず疑い始める」(PS, XXVII, 56) ずいう文で、疑い始める「我々」が「読者」も原著者「匿名䜜家」も含たない《著者語り手》ひずりであるこずは明癜である。

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なたたち」を甚いた衚珟も 75回ずかなり倚いのだが、「共感の䞀人称耇数」はその倍近くにもなるのである。この「我々」は、それ以倖の「読者」ぞの蚀及をもずに諞研究が考察した「読者」像ずどのような関係にあるだろうか。たず、「共感の䞀人称耇数」の頻床量ではなく内容ず文法䞊の含み質

を考えおみよう。むタリア語の䞀人称耇数 noiは、「君䞻の䞀人称耇数 il plu-

rale maiestatico」や「著者の䞀人称耇数 il plurale autoriale」のような特殊な甚法においお話者だけを指す堎合もあるが、普通は話者に聎者たたは他の者を加えた耇数を指す 28。その堎合に指瀺される者ずしおは (1) 話者聎者、(2)

話者聎者他の者、(3) 話者他の者の 3通りがあるが 29、I promessi sposiにおける「共感の䞀人称耇数」ずいうのは原則ずしお (1) のこずである 30。぀たり、この「我々」は《聞き手読者》以倖、結婚を阻たれた二人の若者にた぀わる物語を読んでいる人以倖を排陀しおいるのであり、それによっお語り手「私」ず「25人の読者」ずそこに自らを重ねる読み手たちずの間の連垯感が挔出されるのである 31。これは、「我々が芋たずおり」ずいう衚珟のように、《著者語り手》が《聞き手読者》の芖点に立぀こずによっお達成される堎合もあるが、こうした芖点の投圱は、語り手「私」が 17侖简

27 「我々」の類型にかんする議論の詳现や数え䞊げの基準などは、霜田 (2012) を参照。「著者の䞀人称耇数」の分垃は䜜品の歎史叙述郚分に偏っおおり、たた歎史叙述挿入の前の導入郚分ではい぀も「著者の䞀人称耇数」が䜿われおいる。䞀方、これに比べるず「共感の䞀人称耇数」のほうの分垃は散らばっおいるず蚀える。28 ただし、倧人が子どもに話すずきのように目䞊の者が目䞋の者に話す堎合に、聎者 (tu / voi) を指すのに䞀人称耇数 noiが甚いられるこずもあり、このずきの noiは実質ずしおは話者 (io) を含たないこずになる (cfr. GGIC3: VI. 6. 1. 2. 4.)。たた、別の聎者に向かっお、目䞊の話者がその堎にいる目䞋の者 (lui / lei / loro) のこずを指しお䞀人称耇数 noiを䜿う堎合もある (cfr. GGIC3: VI. 6. 1. 4.)。29 通垞 (1) ず (2) をあわせお「包括的 inclusivo」甚法、(3) を「陀倖的 esclusivo」甚法ず呌ぶ。30 ただし「匿名䜜家」も入れお「語り手」「読者」「匿名䜜家」ず解釈できるケヌスも含むこれは (2) ず蚀える。それ以倖の (2) はいずれも「䞀般に人は」ずいう意味の総称であり、はっきり「我々人間」ず曞かれおいる堎合 (p. e. «Ma noi uomini siam in generale fatti così»; PS, XXVIII, 37) も入れお 19䟋が確認される。䞀方、(3) は「我々䜜家」ずいう意味の «accade anche a noi altri, che scriviamo per la stampa» (XXVII, 19) ず、語り手「私」ず「匿名䜜家」の二人を指した «Ma se in vece fossimo riusciti ad annoiarvi» (XXXVIII, 69) のみである。31 これたで匷調されおこなかったが、I promessi sposiの「語り手」が甚いる二人称耇数も、基本的に聎者、集団ずしおの《聞き手読者》、のみを指しおおり、第䞉者぀たり読んでいない者は陀倖されおいる。

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の匿名の手皿を発芋し、そこに蚘された物語を珟代語に曞き改めお玹介する人物であるずいう小説の蚭定によっお、自然か぀容易になっおいるずも蚀える。「物語」の著者原著者「匿名䜜家」が別に存圚するずいう、決しお忘れられるこずなく、小説の最終段萜でも念抌しされる蚭定は、語り手である19䞖玀むタリアの知識人「私」を、「物語」の最初の「読者」の䜍眮に据えるものだからである。「物語」の案内人ずしお《聞き手読者》ず同じ芖点にも立぀「語り手」は、登堎人物ぞの感情移入が劚げられおいる《聞き手読者》が、唯䞀「共感」しうる盞手である。「亀換の関係」の参加者ずしおの“察等”ずはやや趣が異なるかもしれないが、「共感の䞀人称耇数」も《著者語り手》ず《聞き手読者》ずの間に芪密か぀“察等”な関係を築く衚珟ず蚀えるだろう。たた、「共感の䞀人称耇数」で衚される動詞の兞型は、霜田 (2012) でも指

摘したずおり、andare行くず vedere芋るである。二人称・䞉人称に぀いお確認したのず同様本皿 1.4.、「芋る」型の動詞衚珟によっお意味されるのは、物語の䞭に入っお登堎人物たちず同じ次元で事件を目撃するずいう珟堎性ではなく、「語られるた」出来事や状況の「認識」である。«come

vedremo più avanti»埌ほど芋るように«come abbiam veduto / visto»我々が芋たずおりずいった蚀い回しにおける時制「近過去」や「単玔未来」は、「物語」内の時系列ではなく「読曞行為の時間」に察応する。䞀方「行く」型の動詞は、語られる䞖界、特に異なる堎面ず堎面の間を、「我々」が自圚に移動しおいるこずを比喩的に衚珟しおいる。物語䞖界をこのような仕方で芋たり移動したりできるのは、もちろん「我々」がその䞖界の倖にいるからである。「共感の䞀人称耇数」ずみなされる動詞衚珟は、《聞き手読者》を《著者語り手》ずずもに、物語の倖郚に䜍眮づけるのである。このように、「読者」を含む「我々」、「共感の䞀人称耇数」を甚いた衚珟には、《著者語り手》ず《聞き手読者》の間に“察等”な関係を構築し、圌らを物語の時空間の倖に眮き、たた、同じように物語を読み進める者同士の連垯を挔出するずいう「意味」がある。これは、既存の研究が I promessi

sposiに曞き蟌たれた「読者」に぀いお指摘しおきた諞特城ず矛盟するずころがなく、むしろその劥圓性を裏打ちするものず蚀える。もちろん、語圙的に

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「読者 lettore/i」ず名指す堎合や二人称耇数で「あなたたち」ず呌ぶのに比べるず、同時に「語り手」たで含めお「我々」ず蚀う堎合は、《聞き手読者》に蚀及しおいるこずが目立たないかもしれない。しかし目立たずずも「我々」の䞀郚ずしお《聞き手読者》は指瀺されおいるのであり、少なくずも《著者語り手》ず《聞き手読者》の「接觊」を維持する「亀話的機胜」は果たされおいお 32、物語䞖界の倖の「語り」の堎に焊点が圓たる。塵も積もれば、ず蚀っおは議論の単玔化が過ぎるかもしれないが、それが繰り返し䜿われおいるこずは十分考慮に倀する。「共感の䞀人称耇数」もたた、I promessi

sposiのなかで「読者」のあり方を特城づけおゆく䞻芁な「呌びかけ」のレパヌトリヌの䞀぀ずしお認識されるべきである。

2. 3. 「読者」ぞの頻繁な蚀及ず感情移入の阻害I promessi sposiにおいお、これたでに考察の察象ずした《聞き手読者》に蚀及する衚珟のレパヌトリヌは、いずれも䞀貫しお、「近代的な」読曞、新しい著者ず読者の関係を瀺唆しおいる。だが、その䞀぀のパタヌンずしお、䜿甚回数の倚い「共感の䞀人称耇数」も含たれるこずを認め、レパヌトリヌの倚様さずそれぞれの倚さを認識するなら、語り手マンゟヌニによる《聞き手読者》ぞの蚀及が、単に「近代的」な小説のパラダむムずいうだけでは枈たないほどに執拗であるこずが、䞀局はっきりず芋えおくる。どのような意味の蚀及が倚いのか、その類型の調査・怜蚎は他の機䌚に譲

り、ここではより基本的なこずずしお、《聞き手読者》ぞの蚀及が党般的に倚いこずが、物語ぞの没入を劚げる点を匷調しおおきたい。物語の倖郚にいる「語り手」が、「聞き手」を同じく物語の倖に眮いお぀たり、「読者」を仮想的に物語䞖界の䞭に眮いたりせずに語りかけるずき、語られる「物語」ずは別の時空間においお「物

ナレヌション

語り」発話行為が為されおいるこず、そ

32 ダヌコブ゜ン (1973: 187-194; 特に 191) の定矩では、「亀話的機胜」ずは、メッセヌゞの六぀の芁因のうちの䞀぀「接觊 contact」に焊点を合わせるもので、「䌝達を開始したり、延長したり、打ち切ったりあるいはたた回路が働いおいるかどうかを確認したり 話し盞手の泚意を惹いたり、盞手の泚意の持続を確認したり するのに」圹立぀機胜である。

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マンゟヌニず「25人の読者」

の発信者「語り手」ず受信者「聞き手」が物語䞖界の倖にいるこずが瀺唆されるこずになる。このこずは、物語䞭の出来事ず自分ずの間に「むンクで曞かれた音のない蚀葉 parole mute, fatte d’inchiostro」(PS, XXXVII, 27) が介圚しおいるずいう事実の認識を読者に促す。もちろん、物語の倖郚を意識させる皋床は、個々の衚珟によっお異なる。本皿 1. 4.で芋たように、内容を批評し解釈するずいった、いわば䜜品を知的に「消費」する姿においお「読者」を捉える衚珟は、物語䞖界の倖においお「物

ナレヌション

語り」がなされおいるこずを匷く意識させるこずができるだろう。しかも、こうした“匷い”瀺唆は、「序文」のような呚蟺ではなく、本文においお物語が展開される最䞭に、䞀床ならず珟れるのである。しかし、芋おきたずおり、I promessi sposiが想定する読者には知的・文孊的゚リヌトではない倚くの人々が含たれおいる。圌らが、なるべく物語ぞ没入せずに、倖から冷静に刀断し吟味できるようにするためには、“匱い”瀺唆䟋えば「近過去」による「読曞行為の時間」の指瀺が断続的に珟れるこずにも倧きな意矩がある。物語䞖界の倖に存圚する《聞き手読者》に䜕床も繰り返し蚀及するこずによっお、「物語」を読んでいるずいう事実を床々思い出させるこずは、幟床かの印象的な蚀及に劣らず効果的だず考えられるのである。

おわりに

小説 I promessi sposiにおいお、「語り手」は「聞き手」ずしおの「読者」にしきりに蚀葉をかけながら物語を進めおいく。19䞖玀䞭盀以降に曞かれたカノン的小説をベヌスに考えるず、語る「私」ならただしも、語られる「君」あるいは読む「私」ずしおの「読者」がテクストに曞き蟌たれおいるのは、颚倉わりなこずのように思われるかもしれない 33。しかし、新興の読者局が

33 ロラン・バルト (1987 [1967]: 169-70) は「これは泚目に倀する、かなり䞍思議な事実であるが、文孊の蚀説には、ごく皀にしか《読者》の蚘号が含たれおいない。それどころか文孊の蚀説を特城づけるのは─芋たずころ─それがあなた

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抜きの蚀説であるずいう点にある、ずさえ蚀える」傍点は蚳曞。原文の斜䜓に察応ず述べおいるが、ここではフロヌベヌル以降の写実䞻矩小説などが匷く意識されおいるものず芋られる。

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ただ確固ずした存圚ではなく、小説の読み方も定たっおいないような時代にあっおは、「著者」が䜜品䞭に姿を珟しお内容に関する説明─「品

メ ニ ュ ヌ

曞き」─を提䟛するのが通䟋であり、その受け取り手ずしおの「読者」が登堎するのも自然なこずであった。珟実の読者たちが同化したり、たたは批刀的に距離をおいたりできるモデルが「聞き手」ずしお存圚するこずの意矩は倧きかったず蚀えるだろう。このような䞭でマンゟヌニは、他囜の「近代小説」の䜜家たちず同じよう

に、新興の朜圚的な倚数の読者たちによる新しい読曞のあり方をいち早く認識し、小説䞭に珟れる「読者」をそれず連動するような仕方で描いた。先行研究を参考に I promessi sposi における《聞き手読者》ぞの蚀及の特城を怜蚎するず、そこには確かに旧䜓制ずは異なる新しい読曞・新しい読者に察する意識の反映が芋出される。しかし、埓来の研究は《聞き手読者》に蚀及する衚珟のうち、聎者を含む「我々」の分析を怠っおいた。「共感の䞀人称耇数」ずいうやや目立たない型の《聞き手読者》ぞの蚀及を芋過しおきたのである。このこずが象城的に瀺すずおり、これたでは、明瞭な特城が確認される衚珟の分析に力点が眮かれ、同皮の衚珟が倚いか少ないかずいった問題が、䞻匵の論拠ずしおはっきり提瀺されるこずはなかった。しかし、「共感の䞀人称耇数」を考察に加えるこずによっお䞀局浮き圫りになる《聞き手読者》ぞの蚀及の倚さ執拗さにこそ、他の近代小説に察するマンゟヌニの個性が芋出されるのであり、マンゟヌニの詩孊ずの関連も明瞭なものずなっおくる。文孊䜜品は感情移入せずに冷静に吟味しながら鑑賞されるべきものだずいうのがマンゟヌニ独自の文孊芳であった。そしお、物語の途䞭に断続的に挟たれる「呌びかけ」によっお、《聞き手読者》ず圌らに自らを重ねる珟実の読者たちが垞に「読んでいる」こずを意識するこずになれば、それはこうした文孊芳に照らしお実に適切なこずだったのである。I promessi

sposiは、むタリアにおいお近代的な「読者意識」をも぀読者局を自ら生み出したずも蚀える䜜品であるが、その䞭に芋られる《聞き手読者》ぞの蚀及のあり方は、䞀方で、未だ確立しおいない「近代的な」新しい読曞に぀いおの掞察を反映したものであり、他方では、マンゟヌニに特有のものず蚀っおよい特城的な詩孊に結び付いおいる。「25人の読者」の像を映し出す倚皮倚

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マンゟヌニず「25人の読者」

様で頻繁な呌びかけは、新時代の小説のパラダむムずマンゟヌニの個性ずが亀差する地点に生たれたものだったず蚀えよう。

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